ムッソリーニ
【概説】
イタリアのファシスト党の指導者(ドゥーチェ)であり、第一次世界大戦後のイタリアにファシズム体制と呼ばれる独裁政権を樹立した政治家。エチオピア侵略などを強行して国際社会から孤立を深めるなかで日本・ドイツと接近し、日独伊三国同盟を結んで第二次世界大戦の枢軸国の一角を担った。
ファシズムの台頭と独裁体制の確立
第一次世界大戦後のイタリアは戦勝国であったものの、連合国から十分な領土的報酬を得られなかった不満や、深刻なインフレーションによる社会不安に覆われていた。この混乱に乗じて共産主義勢力が台頭するなか、ベニート・ムッソリーニは1919年に「戦闘者ファッシ」を結成し、1921年にファシスト党へと改組した。
社会革命の脅威を恐れる地主や資本家、軍部からの支持を集めたムッソリーニは、1922年に実力行使による政権奪取を狙った「ローマ進軍」を決行する。これを恐れた国王から組閣の大命を受け、首相に就任した。その後、選挙法の改正や野党の弾圧を通じて一党独裁体制を確立し、「ドゥーチェ(指導者)」として国家の全権を掌握していった。
膨張主義への転換とエチオピア侵略
1929年の世界恐慌によってイタリア経済も深刻な打撃を受けると、ムッソリーニは国内の不満を逸らし、経済圏を拡大するために露骨な対外膨張政策へと転換した。
1935年、イタリアはアフリカの独立国であるエチオピアに侵攻し、翌年に併合を宣言した。この侵略行為に対し、国際連盟はイタリアに対する経済制裁を発動したが、すでに連盟を脱退していた日本やドイツはこの制裁に加わらなかった。結果として、このエチオピア問題はイタリアが英仏と対立し、国際的孤立を深めていた日本やドイツへと急速に接近する決定的な契機となった。
日独伊防共協定から三国同盟へ
日本史の視点から見た際、ムッソリーニの動向は昭和前期の日本の対外政策に極めて重大な影響を与えた。エチオピア侵攻で国際的に孤立したイタリアは、1936年にドイツとの間に「ベルリン・ローマ枢軸」を形成し、1937年には日本とドイツが結んでいた防共協定に参加して日独伊防共協定が成立した。
さらに1940年、第二次世界大戦におけるドイツの快進撃を見た日本は、バスに乗り遅れまいとする機運のもと、ドイツおよびムッソリーニ率いるイタリアと日独伊三国同盟を締結した。ムッソリーニの存在とイタリアのファシズム体制は、日本が米英との対立を深め、アジア太平洋戦争へと突き進む過程において、軍部や右翼勢力にとっての思想的・外交的な後ろ盾として機能したのである。
第二次世界大戦の敗北と最期
1940年6月、フランスの敗北が濃厚となると、ムッソリーニは英仏に対して宣戦布告を行い第二次世界大戦に参戦した。しかし、軍備が不十分であったイタリア軍は北アフリカやギリシャなどで敗退を重ね、ドイツの軍事的支援に依存せざるを得なくなった。
1943年7月に連合軍がイタリア本土のシチリア島に上陸すると、国内の不満が爆発し、ファシスト大評議会によってムッソリーニは首相を解任・逮捕された。その後、ドイツ軍の特殊部隊に救出され、北イタリアで傀儡政権(イタリア社会共和国)を樹立したものの、戦局の悪化に伴い逃亡を図った。1945年4月、スイス国境付近で反ファシズムのパルチザンに捕らえられ処刑された。同盟国指導者の無残な最期は、数ヶ月後に敗戦を迎える日本の指導層にも大きな衝撃を与えた。