エチオピア侵略
【概説】
1935年、ムッソリーニ政権下のイタリアがアフリカ東部の独立国エチオピア帝国に対して行った武力侵略。世界恐慌後に動揺していた国際連盟の集団安全保障体制の無力さを露呈させた。この事件を契機にイタリアは英仏と対立し、ドイツや日本への接近を強めることとなった。
イタリアの帝国主義的野心と国際連盟の限界
第一次世界大戦後のイタリアでは、1922年にムッソリーニが政権を握り、ファシズム体制を構築していた。ムッソリーニは国内の恐慌対策とナショナリズムの昂揚を狙い、19世紀末のイタリア・エチオピア戦争での敗北(アドワの戦い)の雪辱を果たすべく、1935年10月にエチオピアへの侵攻を開始した。
エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際連盟に救済を求めた。連盟はイタリアを侵略国と認定し、史上初となる経済制裁を発動した。しかし、制裁対象から軍事行動に不可欠な「石油」が除外されたことや、非加盟国であるアメリカ合衆国の不参加、さらに英仏両国がイタリアをナチス・ドイツへの牽制として繋ぎ止めたいという思惑から宥和的な態度をとったため、制裁は実効性を欠いた。結果として1936年5月、イタリアは首都アディスアベバを占領してエチオピアを併合し、国際連盟の権威は完全に失墜した。
ファシズム陣営の形成と日本への歴史的影響
エチオピア侵略は、当時の日本(昭和時代)の外交方針にも大きな影響を与えた。すでに1933年に満州事変をめぐって国際連盟を脱退していた日本にとって、連盟がイタリアの暴挙を阻止できなかった事実は、自国の大陸侵略(満州国の維持や華北分離工作)に対する国際的な干渉の限界を示すものとして受け止められた。
また、国際社会から孤立したイタリアは、同じく国際連盟を脱退していたナチス・ドイツに急接近した。これにより、1936年10月に「ベルリン・ローマ枢軸」が形成される。日本はこの動きと連動する形で、同年11月にドイツと日独防共協定を締結し、翌1937年にはイタリアもこれに加入して日独伊防共協定(三国防共協定)へと発展した。このように、エチオピア侵略は欧州とアジアのファシズム・軍国主義国家を急速に結びつけ、後の第二次世界大戦における「枢軸国」形成の決定的な契機となったのである。