企画院

1937年に資源局と企画庁を統合して内閣に設置され、戦時統制経済の立案や物資動員計画の策定を担った機関は何か?
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重要度
★★

企画院

1937〜1943年

【概説】
1937年に近衛文麿内閣によって設置され、戦時統制経済の司令塔となった内閣直属の国策立案機関。国家総動員計画の策定や物資動員計画の立案を一元的に担い、日中戦争から太平洋戦争期における日本の総力戦体制を官僚主導で牽引した。

設置の背景と「革新官僚」の台頭

1937年7月の日中戦争の勃発にともない、日本は本格的な総力戦体制への移行を迫られることとなった。これに対応するため、同年10月に従来の「企画庁」と「資源局」を統合・改組する形で企画院が設置された。内閣総理大臣直属の機関として強力な権限を与えられ、経済・産業のみならず、交通、通信、労働など国家のあらゆる資源を戦争に動員するための計画立案を行った。

企画院の中心を担ったのは、満洲事変以降に台頭した革新官僚と呼ばれる新進気鋭の中堅官僚たちであった。彼らはソ連の五カ年計画やナチス・ドイツの統制経済に強い影響を受け、従来の資本主義的な自由市場経済を否定し、国家が主導する高度な「計画経済(統制経済)」の実現を目指した。のちの首相となる岸信介をはじめ、奥村喜和男、美濃部洋次、迫水久常らがその代表格であり、彼らは近衛文麿の掲げた「東亜新秩序」や「新体制運動」とも深く結びついていった。

総力戦体制の構築と物資動員計画

企画院の最大の役割は、1938年に制定された国家総動員法の運用と、それに基づく物資動員計画(物動計画)の策定・実行であった。日中戦争が泥沼化するにつれ、日本国内では極端な物資不足が生じるようになった。企画院は軍需と民需のバランスを考慮しながら、鉄鋼、石炭、石油などの重要資材の配分を一元的にコントロールし、国民生活の犠牲の上に立った軍需優先の配給・価格統制を推し進めた。

さらに、企画院は「電力国家管理案」などの重要産業の国策化を次々と打ち出した。これは民間企業の利潤追求を制限し、国家の目的のために産業を再編成する試みであり、日本の経済構造を自由主義経済から高度国防国家建設のための統制経済へと完全に塗り替えていく契機となった。

摩擦と終焉:「企画院事件」から軍需省へ

しかし、企画院が進める急進的な経済統制や私有財産への介入は、自由企業体制の維持を望む財界や、それに同調する政界・保守派官僚から激しい反発を受けることとなった。こうした対立が表面化したのが、1940年から1941年にかけて発生した企画院事件である。

この事件では、企画院内部の革新官僚や調査官(勝間田清一や和田博雄など)が、経済統制を通じて共産主義的な政策を実行しようとしたとして、治安維持法違反の容疑で検挙された。これにより企画院が目指した官僚主導による革新的な統制運動は事実上挫折し、経済統制の主導権は一部財界や軍部に妥協する形で軌道修正を余儀なくされた。

その後、太平洋戦争の戦局が悪化するなか、兵器生産の極大化と陸海軍のセクショナリズム調整を図るため、1943年11月に東条英機内閣は企画院と商工省を廃止・統合し、新たに軍需省を設置した。企画院が目指した一元的な計画統制のノウハウは軍需省へと引き継がれ、敗戦に至るまで戦争遂行のために機能し続けた。また、ここで培われた計画経済の思想や手法は、戦後の復興期における傾斜生産方式などの経済政策にも間接的な影響を与えたと指摘されている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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