プレス=コード
【概説】
太平洋戦争直後の1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本の報道機関に対して発令した言論統制・報道規制の基準。連合国や占領政策に対する批判的な報道を一切禁止し、GHQによる厳格な検閲体制の基礎となった。戦後の言論空間を方向づけ、占領の実態を覆い隠す役割を果たした制度である。
発令の背景と言論の「二重支配」
1945年8月の敗戦直後、日本政府は依然として戦時中の同盟通信社や各新聞社に対する統制を続けていた。これに対し、占領を開始した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の民主化と非軍事化を促進するため、基本的人権の一環として「言論の自由」の確立を要求した。1945年9月10日に「言論及新聞の自由に関する覚書」を日本政府に送り、日本政府による言論統制を解体した。
しかしその一方で、GHQは占領政策の円滑な遂行を妨げる言論を取り締まる必要性を強く認識していた。そこで、同年9月19日に発令されたのが「プレス=コード(新聞準則)」である。これにより、日本のメディアは日本政府による制約から解放されたものの、今度はGHQ(具体的には民間検閲局:CCD)による、より強力で組織的な検閲・規制下に置かれるという言論の「二重支配」の構造へと移行することになった。
規制の具体的な内容と適用範囲の拡大
プレス=コードは、日本のジャーナリズムが遵守すべき10原則(後により細分化)から構成されていた。その核心は、連合国(特にアメリカ軍)に対する批判の禁止であった。具体的には、米兵による犯罪(強盗や強姦など)、連合国の不和に関する報道、戦中の米軍による無差別爆撃への抗議、そして何よりも広島・長崎への原子爆弾投下による被害や原爆症に関する科学的・人道的な記述が厳しく制限された。
この言論規制は、当初は大手新聞や通信社を対象としていたが、まもなくラジオ(ラジオ=コード)、雑誌、書籍、さらには教科書や個人の信書(郵便検閲)にまで及ぶ広範なシステムへと拡大された。これにより、日本国内における戦争被害の実態やGHQの占領政策に対する国民の不満は徹底的に隠蔽されることとなった。
「不可視の検閲」とその歴史的影響
プレス=コードのもとで行われた検閲の最も大きな特徴は、「検閲を行っている事実そのものを伏せること」が義務付けられていた点にある。戦前の日本政府による検閲では、削除された部分が伏字(「××」など)で示されたため、読者は規制の存在を知ることができた。しかし、GHQは伏字を禁止し、削除や改訂の痕跡を残さないように紙面の再構成を求めた。この「不可視の検閲」により、日本国民は自らが享受している情報が検閲を経たものであることを意識しないまま、GHQ主導の民主化・戦争責任追及(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムなど)の言説を受け入れることとなった。
プレス=コードによる事前・事後検閲は、1949年以降段階的に解除され、1952年のサンフランシスコ平和条約発効(占領期終了)にともなって正式に廃止された。しかし、この時期に培われた「自主規制」の体質や、原爆被害に関する報道の遅れなどは、戦後の日本社会の歴史認識やジャーナリズムのあり方に長期にわたる影響を及ぼし続けることとなった。