物資動員計画
【概説】
日中戦争から太平洋戦争期にかけて、日本の戦時統制経済の根幹となった重要物資の総合的な生産・配分計画。内閣直属の企画院が中心となり、限られた資源や外貨を軍需優先で国家が管理・統制することを目指した。
日中戦争の勃発と経済統制の始動
1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発すると、戦況の拡大に伴って軍事支出が急膨張し、兵器や軍需物資の生産に必要な原材料の輸入が激増した。これにより深刻な外貨不足が生じ、インフレの危機が高まったため、政府は従来の自由主義的な経済体制から、国家が経済活動を直接管理する統制経済への移行を余儀なくされた。同年10月、近衛文麿内閣は経済統制の司令塔として企画院を設置し、国家総動員体制の構築へと乗り出した。
この中で策定されたのが「物資動員計画(物動計画)」である。1938年度(昭和13年度)実行計画から本格的に開始されたこの計画は、鉄鋼、石油、石炭、銅など重要物資の国内生産量や輸入量を見積もり、それを軍需・官需・民需へと戦略的に配分する枠組みであった。当然ながら資材の配分は軍需が最優先され、民需は徹底的に削減されることとなった。
生産力拡充計画との連動と国民生活への影響
物資動員計画を円滑に進めるため、政府は1938年に国家総動員法を制定し、物資のみならず資金や労働力までも包括的に統制する権限を手に入れた。さらに、長期戦に耐えうる軍需生産力を確保するため、重要産業の生産能力を強制的に引き上げる「生産力拡充計画」も同時に推進された。物資動員計画は、この生産力拡充に必要な資材を重点配分する役割も担っていた。
この徹底した軍需優先政策は、国民生活に多大な犠牲を強いることとなった。綿糸や繊維製品、金属製品などの一般消費財の製造・販売が厳しく制限され、木製品やスフ(人造繊維)などの代用品の使用が強制された。やがて、米や砂糖、マッチなどの日用品にも切符制や配給制が導入され、国民は極度な物資不足と配給の列に悩まされる生活を余儀なくされていった。
太平洋戦争の開戦と計画の破綻
1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発すると、アメリカやイギリスなどからの物資輸入が完全に途絶した。日本は、石油などの重要資源を東南アジア(南方占領地)からの輸送に依存する新たな物資動員計画を建てざるを得なくなった。しかし、この計画は当初から破綻を内包していた。広大な戦域において、資源を本土へ運ぶための商船(輸送船)が、米軍の潜水艦や航空機によって次々と撃沈されたためである。
海上輸送路(シーレーン)の遮断により、原材料の国内流入は激減し、国内の軍需生産自体が急速に縮小した。1944年(昭和19年)頃には、計画を策定するための基礎的な統計数値や輸送の見通しすら立たなくなり、物資動員計画は完全に形骸化。日本の戦時経済は自給自足すらままならない壊滅的な状態に陥り、そのまま終戦を迎えることとなった。