ノモンハン事件
【概説】
1939年に満州国とモンゴル人民共和国の国境紛争を契機に発生した、日本軍(関東軍)とソ連・モンゴル連合軍による大規模な軍事衝突。近代的な火力と機動力を擁するソ連軍に対し、精神論を重視した日本軍が惨敗を喫した。この敗北は、その後の日本の軍事ドクトリンや「南進論」への外交方針転換に決定的な影響を与えた。
国境の不確定性と衝突の泥沼化
1932年の満州国建国以来、日本軍(関東軍)が実質的に支配する満州国と、ソ連の強い影響下にあったモンゴル人民共和国との間では、国境線をめぐる領有権の主張が対立していた。日本側はハルハ河を国境と主張したのに対し、モンゴル側はその東方に位置するノモンハン付近を国境としていた。1939年5月、この地域で両軍の国境警備隊が衝突したことを契機に、関東軍は独断で介入を決定。ソ連側もまた、将来の対独戦を見据えて東部国境の安定をはかるべく、ジューコフ将軍を指揮官とする大規模な増援部隊を送り込んだことで、紛争は本格的な戦争へと発展した。
近代戦の現実と日本軍の「精神主義」の限界
戦闘は、最新鋭の戦車、航空機、火砲を大量に投入し、緻密な補給線を構築したソ連軍の圧倒的な優位に進んだ。これに対し、日本軍は日露戦争以来の「精神主義」や白兵突撃に頼る傾向が強く、火砲や弾薬の量的不足、そして何よりも近代戦におけるロジスティクス(兵站)の重要性を軽視していた。同年8月、ソ連軍による大規模な包囲攻撃により、主力となった関東軍第23師団は壊滅的打撃を受け、日本側は甚大な損害を被ることとなった。近代化された軍隊同士の組織戦において、物量と技術の差が勝敗を決することを証明した象徴的な戦いとなった。
「複雑怪奇」な国際情勢と「南進」への転換
ノモンハンでの戦闘が最終局面を迎えていた1939年8月23日、同盟関係を結びつつあったドイツが突如としてソ連と独ソ不可侵条約を締結した。この急転直下の事態に、対ソ共同防衛を前提としていた平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」との言葉を残して総辞職を余儀なくされた。孤立を恐れた日本は、同年9月にソ連との間で停戦協定を締結。この惨敗と国際情勢の激変により、陸軍が主導していたシベリア方面への進出を目指す「北進論」は事実上挫折し、日本はのちに資源を求めて東南アジアへの進出を志向する「南進論」へと舵を切ることとなる。結果として、この方針転換が米英との対立を決定づけ、太平洋戦争へと突入する契機となった。