平沼騏一郎内閣

1939年8月、独ソ不可侵条約の締結という予想外の事態に直面し、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職した内閣は誰の内閣か?
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重要度
★★

【参考リンク】
平沼内閣(Wikipedia)

平沼騏一郎内閣 (ひらぬまきいちろうないかく)

1939年

【概説】
日中戦争期の1939年1月から8月まで存続した、日本の内閣。司法官僚出身で観念的右翼の巨頭であった平沼騏一郎が組織し、戦時統制の強化に努めたが、同盟交渉をめぐる陸海軍の対立や独ソ不可侵条約の締結という国際情勢の激変に対処できず、「欧州の天地は複雑怪奇」との声明を残して総辞職した。

内閣の発足と国内戦時体制の整備

日中戦争(支那事変)の長期化に直面した第1次近衛文麿内閣が、解決の糸口を見いだせないまま1939年1月に総辞職した。これを受けて、枢密院議長であった平沼騏一郎が後継首相に指名され、挙国一致の平沼内閣が発足した。平沼は、天皇親政や国体明徴を掲げる保守右翼の団体である国本社の党首を務めるなど、国家主義勢力の中心人物であった。

平沼内閣は前内閣の路線を継承し、長期化する日中戦争に対応するため、国家総動員法の発動をさらに拡大した。これにより、国民精神総動員運動を「国民精神総動員委員会」の設置によって政府主導の組織運動へと改編し、生産力の拡充と物資統制の徹底を進めた。さらに、国民徴用令を制定・施行して戦時労働力の確保を画策するなど、日本社会の戦時体制への移行をより一層強固なものとした。

日独伊三国同盟交渉の難航と陸海軍の対立

外交面における平沼内閣の最大の課題は、ドイツ・イタリアとの外交関係の強化、特に日独伊防共協定を軍事同盟(のちの日独伊三国同盟)へと格上げする交渉であった。陸軍は、日中戦争における欧米諸国の抗日支援(援蒋ルート)を牽制し、仮想敵国であるソビエト社会主義共和国連邦に対抗するため、早期の軍事同盟締結を強く求めた。

これに対し、外相有田八郎や海軍(米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官ら)は、ドイツとの同盟によってイギリスやアメリカとの全面的な対立を招くことを極度に恐れた。彼らは、同盟の適用範囲をソ連に限定すべきだと主張した。閣内での議論は紛糾し、平沼首相の指導力不足もあって、70回を超える「五相会議」を開催したものの結論を出せないまま交渉は漂流を続けた。

ノモンハン事件と「複雑怪奇」声明による退陣

平沼内閣が外交方針をめぐって混迷するなか、1939年5月、満州国とモンゴル人民共和国の国境地帯で、日ソ両軍による武力衝突であるノモンハン事件が勃発した。この戦闘において、近代化されたソ連軍の圧倒的な機甲戦力の前に日本陸軍(関東軍)は大打撃を受け、対ソ緊張は極限に達した。

日本側がソ連への対抗策を模索する最中の1939年8月23日、極めて衝撃的なニュースがもたらされた。反共主義を掲げて日本と同盟交渉を進めていたはずのナチス・ドイツが、日本に何の事前連絡もなく、宿敵であるソ連との間で独ソ不可侵条約を締結したのである。この外交的裏切りは、平沼内閣の対外方針の前提を根底から覆すものであった。

外交的な梯子を外された平沼内閣は、情勢の予測不能な変化に対し、「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」とする有名な声明(複雑怪奇声明)を発表した。平沼は自らの外交的失策と指導力不足を認め、8月30日に内閣総辞職へと追い込まれた。後任には阿部信行内閣が組織され、日本は外交方針の再検討を余儀なくされることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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