阿部信行 (あべのぶゆき)
【概説】
昭和初期に活動した陸軍大将、政治家。平沼騏一郎内閣の退陣後に第36代内閣総理大臣に就任し、第二次世界大戦勃発に対して大戦不介入の方針を堅持した。しかし、日中戦争の長期化に伴う物資不足や急激な経済統制の導入による混乱から政局の支持を失い、わずか4ヶ月余りで総辞職に追い込まれた。
平沼内閣の退陣と「温和派」阿部信行の擁立
1939年8月、同盟交渉を進めていたドイツがソ連と突如として不可侵条約(独ソ不可侵条約)を締結したことで、当時の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」との言葉を遺して総辞職した。後継首班の選定にあたっては、軍部の政治暴走を警戒する宮中グループや昭和天皇の意向が強く働き、陸軍内の特定の派閥から距離を置いていた穏健派の陸軍大将・阿部信行に白羽の矢が立った。
阿部は、軍政・軍令の要職を歴任しながらも政治的色彩が薄く、過激な新体制運動や対米英強硬路線を望まない勢力にとって、軍部を抑えるための適任者とみなされていた。こうして誕生した阿部内閣は、対外的な融和を模索する調整型内閣としての性格を強く持っていた。
第二次世界大戦の勃発と「大戦不介入」方針
阿部内閣の発足直後である1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発した。緊迫する国際情勢に対し、阿部内閣は9月4日に「欧州の戦争には介入せず、支那事変の処理に邁進する」とする大戦不介入方針を声明として発表した。これは、すでに泥沼化しつつあった日中戦争(支那事変)の解決を最優先事項とし、欧州の戦火に巻き込まれることを避けるための現実的な措置であった。
当時、日本はアメリカから日米通商航海条約の廃棄通告(1940年1月効力失効)を受けており、外交的・経済的な孤立を防ぐために対米交渉を進める必要があった。阿部内閣はアメリカとの決定的な対立を回避しようと試みたが、中国戦線における日本軍の行動を背景にアメリカ側の態度は硬く、事態の打開には至らなかった。これにより、大戦不介入方針は軍部強硬派や親独派からの反発を招くこととなった。
経済統制の失敗と短命内閣の幕切れ
国内においては、戦時インフレーションの抑制と物資不足への対応が急務であった。阿部内閣は1939年10月、国家総動員法に基づく価格等統制令(九・一八臨時措置)を公布し、すべての価格や賃金を9月18日時点の水準で凍結する「公定価格制」を導入した。しかし、この急速な強硬策はかえって物資の出し惜しみや闇取引の横行を招き、米不足や生活必需品の枯渇など国民生活に多大な混乱をもたらした。
経済政策の失敗は、政党(立憲民政党や立憲政友会)や国民からの激しい批判の的となり、1939年12月には衆議院議員の過半数にあたる270名以上が署名した内閣退陣勧告書が提出される異例の事態に発展した。軍部からも支持を失った阿部内閣は、1940年1月に総辞職を余儀なくされ、在任期間わずか約140日の短命政権として幕を閉じた。後継には海軍出身の米内光政内閣が組織されることとなる。