斎藤隆夫 (さいとうたかお)
【概説】
明治から昭和中期にかけて活躍した立憲民政党出身の政治家。日中戦争期において軍部の政治介入や戦争目的の曖昧さを帝国議会で厳しく追及し、衆議院議員を除名された「反軍演説」で知られる。言論の自由と議会政治の権威を命がけで守り抜こうとした、戦前・戦中を代表する硬骨の自由主義政治家である。
軍部への徹底抗戦――「粛軍演説」と「反軍演説」
斎藤隆夫は兵庫県出身で、早稲田専門学校(現・早稲田大学)を卒業後にアメリカのイェール大学へ留学し、帰国後は弁護士を経て政界入りした。彼の政治活動の真骨頂は、大正デモクラシー期に培った法治主義と議会政治への強い信念に基づき、台頭する軍部へ敢然と立ち向かった点にある。
1936年の二・二六事件直後、斎藤は衆議院において「粛軍に関する質問演説(粛軍演説)」を行い、軍人が政治に関与することの危険性を厳しく指摘した。そして日中戦争(支那事変)の長期化に伴い国民生活が困窮を極めていた1940年2月2日、衆議院本会議において、歴史に名高い「支那事変処理に関する質問演説(いわゆる反軍演説)」を行った。この中で斎藤は、近衛文麿内閣が唱える「東亜新秩序」などのスローガンが極めて抽象的かつ空疎であることを暴き、国民への犠牲に見合う具体的かつ現実的な平和解決策を提示できない政府・軍部の無責任さを鋭く追及した。
衆議院除名処分と同時代への影響
斎藤の反軍演説は、戦争を指導する陸軍や聖戦を煽る急進派議員らの逆鱗に触れた。軍部からの強い圧力に抗しきれず、所属する立憲民政党をはじめとする既成政党も斎藤を擁護することなく追従し、1940年3月、斎藤は衆議院議員を除名処分となった。この事件は、日本における議会の自浄能力の喪失と言論の自由の死滅を象徴する出来事であり、同年後半に展開される政党解消と大政翼賛会の結成へと至る、ファシズム体制構築への決定的な契機となった。
しかし、斎藤に対する国民の信頼は揺るがなかった。1942年の「翼賛選挙」において、東条英機内閣による推薦を受けない非推薦候補として立候補した斎藤は、地元兵庫県から圧倒的な支持を得てトップ当選を果たし国政に復帰した。戦後は日本進歩党の結成に参加し、第1次吉田茂内閣や片山哲内閣で国務大臣を務めるなど、日本の民主主義と議会政治の再建に大きく貢献した。