阿部信行内閣 (あべのぶゆきないかく)
【概説】
陸軍大将の阿部信行を首班として、1939年8月に組織された昭和期の内閣。第二次世界大戦の勃発に際して「欧州戦争不介入」の声明を出し、日中戦争の解決に専念しようとした。しかし、戦時インフレなどの内政問題や外交の行き詰まりから、わずか約4ヶ月半で総辞職に追い込まれた短命内閣である。
独ソ不可侵条約の衝撃と阿部内閣の誕生
1939年8月、同盟交渉中であったドイツが突如としてソ連と独ソ不可侵条約を結んだことは、当時の平沼騏一郎内閣に多大な衝撃を与えた。平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」との言葉を残して退陣。後継内閣の選定にあたり、日中戦争(支那事変)の最中に陸軍の暴走を抑えつつ、英米との決定的な対立を避けたい昭和天皇や重臣グループの意向により、政治的色彩の薄い予備役陸軍大将の阿部信行が首相に推挙された。
こうして1939年8月30日に成立した阿部信行内閣は、外相に野村吉三郎(のちに駐米大使として日米交渉にあたる人物)を起用するなど、親英米派への配慮を見せつつ、緊迫する国際情勢への対応を迫られることとなった。
「欧州戦争不介入」の声明と日中戦争の泥沼化
内閣発足直後の1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、これに対してイギリス・フランスが宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発した。これに対し阿部内閣は9月4日、「欧州戦争不介入」の方針を声明した。これは、ヨーロッパの紛争には関与せず、日本独自の立場を堅持して支那事変(日中戦争)の処理に全力を注ぐという「自主外交」の姿勢を示すものであった。
しかし、日中戦争の解決は容易ではなかった。日本は汪兆銘を首班とする親日新政権の樹立工作(のちの汪兆銘政権)を進めたが、蔣介石率いる重慶政府の抵抗は激しく、戦局は泥沼化の一途をたどった。さらに、同年7月にアメリカから通告されていた日米通商航海条約の廃棄が翌1940年1月に控えており、対米関係の改善も見通しが立たない状況に陥った。
統制経済の導入と国民の不満による退陣
内政面において、阿部内閣は長期化する日中戦争に対応するため、国家総動員法に基づく統制経済を本格化させた。1939年10月には、賃金や家賃、物価の引き上げを凍結する価格等統制令(九・一八停止令)を公布し、戦時インフレの抑制を図った。
しかし、この強硬な物価抑制策は流通の混乱を招き、米や石炭などの生活必需品の深刻な不足をもたらした。配給制の導入や生活苦に対し、国民の間では強い不満が渦巻くようになった。さらに、陸軍の一部や政党からの支持も得られず、衆議院議員の過半数から退陣要求の決議書を突きつけられる事態となり、1940年1月14日に閣内不統一を理由に総辞職した。後継には米内光政内閣が成立することとなる。