国民学校
【概説】
1941(昭和16)年の国民学校令によって従来の小学校が改組されて誕生した初等教育機関。日中戦争の長期化と太平洋戦争への突入を背景に、皇国史観に基づく国家主義的・軍国主義的な「皇国民」の錬成教育が徹底された。敗戦後の学制改革により、1947年に新制小学校へと移行して姿を消した。
国民学校令の公布と設立の背景
昭和10年代、日中戦争の長期化に伴って日本社会は国家総動員体制へと移行していった。1940(昭和15)年には大政翼賛会が結成されて新体制運動が推進され、教育界においても高度国防国家の要請に応えうる「少国民」の育成が急務とされた。こうしたなか、1941(昭和16)年3月に従来の小学校令を全面的に改正する国民学校令が公布され、同年4月より施行された。
これにより、明治時代から長く親しまれてきた「尋常小学校」および「高等小学校」という名称は廃止され、それぞれ国民学校初等科(義務教育・6年制)および高等科(2年制)へと改められた。なお「国民学校」という名称は、ナチス・ドイツの基礎学校(フォルクスシューレ)の制度理念に影響を受けたものといわれている。
「皇国民」の基礎的錬成と教科再編
国民学校令の第一条には、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」と規定された。ここでの最大の眼目は、児童に近代的な知育を授けることよりも、天皇に忠義を尽くす「皇国民」としての精神と身体を鍛え上げる「錬成」にあった。教育現場では、神話と歴史を一体化させた皇国史観が徹底され、朝礼における宮城遥拝(皇居に向かっての最敬礼)や神社参拝、教育勅語の暗唱などが厳格な儀式として実践された。
錬成の目的に合わせ、教科も大きく四つ(高等科は五つ)の領域に統廃合・再編された。修身・国語・国史(歴史)・地理は日本精神涵養の中核として国民科にまとめられた。算数・理科は国防科学や生産力増強の基礎として理数科へ、体育と武道(剣道や銃剣道など)は心身の軍事的な鍛錬を目的とした体錬科へと改編された。さらに音楽や習字、図画工作などをまとめた芸能科、高等科のみに置かれた実業科が設けられた。また、国定教科書も全面的に改訂され、戦意を高揚させる軍国主義的な内容が大幅に増加した。
戦局の悪化と学童疎開
1941年12月の太平洋戦争開戦以降、戦局が悪化していくと、国民学校の教育環境も深刻な打撃を受けていった。1944(昭和19)年からは、本土空襲の危険性が高まったため、都市部の初等科児童(主に3年生から6年生)を農村部などへ避難させる学童疎開が国策として開始された。親戚を頼る縁故疎開のほか、頼る者のない児童は教師に引率されて寺院や旅館などで過酷な共同生活を送る集団疎開を余儀なくされた。
一方、都市部に残った児童や高等科の生徒たちは、深刻な労働力不足を補うために勤労動員の対象となり、軍需工場での労働や農作業、防空壕掘りなどに駆り出され、まともに授業を受けることは不可能となっていた。また、激化する空襲によって多くの国民学校の校舎が焼失した。
敗戦と国民学校の終焉
1945(昭和20)年8月の敗戦により、軍国主義的な国民学校の存在意義は完全に失われた。占領軍であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、教育現場から軍国主義的・超国家主義的な要素は徹底的に排除された。修身・日本歴史・地理の授業は一時停止され、既存の教科書に記された不適切な箇所は児童自身の手によって墨で塗りつぶされた(墨塗り教科書)。
その後、教育の民主化が進められるなかで、1947(昭和22)年に教育基本法および学校教育法が施行され、「六・三・三・四制」に基づく新たな学制が発足した。これに伴い、国民学校初等科は新制小学校へ、高等科は新制中学校へと移行し、国民学校はわずか6年余りでその歴史の幕を閉じることとなった。