皇国史観 (こうこくしかん)
【概説】
日本は万世一系の天皇が統治する神聖な「皇国」であり、世界で類例を見ない優れた国であるとする歴史観。記紀神話に描かれた神話を歴史的事実として扱い、天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家神道と深く結びついた。昭和戦前期における軍国主義の台頭とともに国定の正統史観として絶対化され、国民統制や対外侵略を正当化する精神的支柱として機能した。
皇国史観の思想的源流と形成
皇国史観の思想的なルーツは、江戸時代後期の水戸学や国学、そして幕末の尊王論にまで遡ることができる。明治維新によって成立した近代国家(大日本帝国)は、天皇を中心とした国民統合を進めるため、初代神武天皇の即位(紀元前660年とされる)を基準とする「皇紀」の導入や、大日本帝国憲法における「万世一系」の規定など、国家の起源を神話に求めるイデオロギーを構築していった。
大正期から昭和初期にかけては、実証主義的な歴史学や、津田左右吉らによる文献批判に基づいた科学的な古代史研究が進んだ。しかし、1930年代に入り日本が満洲事変を経て戦争への道を歩むようになると、これらの一歩進んだ歴史研究は「国体を危うくするもの」として激しく弾圧されるようになっていく。
昭和恐慌期から太平洋戦争期における国定化と普及
1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説が排撃された国体明徴運動を契機に、国家による思想統制は極限に達した。この流れの中で、東京帝国大学教授の平泉澄(ひらいずみきよし)らによって提唱された皇国史観が、国家公認の正統な歴史観として位置づけられることとなった。
文部省が発行した『国体の本華』(1937年)や『臣民の道』(1941年)といった冊子は、学校教育や社会教育を通じて国民に広く配布され、皇国史観を骨格とする教育が徹底された。これにより、日本による中国やアジア諸国への侵略戦争は「天皇の御稜威(みいつ)」を世界に広げるための「聖戦」として美化され、多くの国民が「滅私奉公」の精神のもとで戦場へと動員される結果を生んだ。
敗戦による解体と現代への影響
1945年(昭和20年)8月の敗戦により、軍国主義体制が崩壊すると、皇国史観はその社会的・学問的基盤を失った。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって神道指令が発せられ、国家と神道の分離が決定されると、教科書に掲載されていた神話的記述は墨で塗り潰された(墨塗り教科書)。
翌1946年には昭和天皇による「人間宣言」が出され、天皇の神格化は公式に否定された。これにより歴史教育は科学的・客観的な実証主義へと立ち返り、皇国史観は学問の世界から完全に排除されることとなった。しかし、その残影は戦後のナショナリズムの議論や、一部の歴史認識問題において今なお議論の対象となることがある。