南満州
【概説】
中国東北部の南半分を指す歴史的な地域呼称。日露戦争後に日本がロシアから各種権益を継承し、第一次世界大戦中の二十一カ条の要求によって租借権や南満州鉄道などの権益期限が99年に延長された、日本の大陸進出における最重要拠点である。
「南満州」の地理的範囲と歴史的背景
「南満州」とは、広義の満州(現在の中国東北部)のうち、概ね長春以南の地域を指す歴史的な地名である。清朝の故地である満州は、19世紀末からロシア帝国による南下政策の標的となっていた。ロシアは三国干渉の見返りとして清から鉄道敷設権を獲得し、東清鉄道とその支線(ハルビン〜旅順間)を敷設して、この地域を事実上の勢力圏に収めていた。
日露戦争と日本の権益獲得
1904年から1905年にかけて戦われた日露戦争の結果、日本は講和条約であるポーツマス条約によって、ロシアから南満州における権益を譲り受けた。具体的には、遼東半島南端の関東州(旅順・大連)の租借権と、長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道、通称・満鉄)およびその沿線の炭鉱開発権などである。以後、日本はこの地域を保護・経営するための機関として関東都督府(のちに関東庁へと改組)や半官半民の国策会社である南満州鉄道株式会社を設立し、南満州は日本の大陸進出の足場として決定的な重要性を持つようになった。
二十一カ条の要求と権益の延長
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本はヨーロッパ列強の目が東アジアから逸れた隙を突き、翌1915年に第2次大隈重信内閣が中華民国の袁世凱大総統に対して二十一カ条の要求を突きつけた。この要求の第2号において、日本は「南満州及び東部内蒙古」における日本の優越的地位を中国側に承認させた。その核心は、まもなく期限切れを迎えるはずであった旅順・大連の租借期限、および南満州鉄道・安奉鉄道の経営期限をそれぞれ99年間延長させることであった。これにより、日本は南満州における半永久的な支配権の確立を図り、大陸における足場を盤石なものとしたのである。
日中対立の激化から満州事変へ
しかし、二十一カ条の要求による露骨な権益拡大は、中国国内で激しい反日ナショナリズムを喚起し、五・四運動などの抗日運動を激化させる結果となった。1920年代後半になると、蔣介石率いる国民革命軍の北伐による中国統一の波が南満州にも押し寄せ、国権回復運動によって日本の特殊権益は強く脅かされるようになった。これに対し、南満州に駐留する日本軍である関東軍は、同地を「日本の生命線」と位置づけて強硬姿勢をとり、1931年に奉天郊外で柳条湖事件を引き起こした(満州事変)。この軍事行動は南満州のみならず満州全域の武力占領へと発展し、翌1932年の満州国建国へと帰結することになる。このように、南満州は近代日本の帝国主義的膨張の生命線であり、やがて日中戦争、そして太平洋戦争へと至る歴史の重大な転換点となった地域であった。