国恥記念日 (こっちきねんび)
【概説】
第一次世界大戦中の1915年、中華民国の袁世凱政権が日本の突きつけた二十一カ条の要求を最終的に受諾した5月9日を指す記念日。中国において「国家の恥」を忘れないために定められたものであり、中国近代における反日・愛国運動の重要な起点となった。
二十一カ条の要求と「五九国恥」の形成
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本(第二次大隈重信内閣)は日英同盟を口実に参戦し、ドイツが租借していた中国の山東省青島や南洋諸島を占領した。翌1915年1月、加藤高明外相は、権益の固定化と中国における優越的地位の確立を目指し、中華民国の袁世凱総統に対して二十一カ条の要求を突きつけた。
この要求は、山東省の旧ドイツ権益の継承や南満洲・東部内蒙古における日本の権益延長、さらには中国政府への日本人の政治・軍事顧問招聘といった内政干渉に及ぶ過酷な内容(第5号)を含んでいた。袁世凱政権は列強の介入を期待して引き延ばしを図ったが、日本側は1915年5月7日に第5号の要求を一時保留とする最後通牒を送り、回答を迫った。軍事力での対抗が困難であった袁世凱政権は、5月9日にこれを受諾し、5月25日に日華条約(南満洲及東部内蒙古に関する条約など)が調印された。中国の人々はこの一連の屈辱を忘れないため、最後通牒を受諾した5月9日を「国恥記念日」(五九国恥)と定めたのである。
中国ナショナリズムの昂揚と排日運動の激化
国恥記念日の制定は、中国国内におけるナショナリズムを爆発的に高揚させる契機となった。それまで知識人や一部の政治運動にとどまっていた反日感情が、一般の民衆や商人、学生へと広く浸透し、日本商品のボイコット運動や国産品愛用運動(提倡国貨)が組織的に展開されるようになった。
この時に培われた対日警戒感と愛国主義的なエネルギーは、第一次世界大戦後の1919年に勃発する五四運動へと直結していく。パリ講和会議において二十一カ条の要求(特に山東省権益の返還)が退けられたことをきっかけに、北京の学生たちが立ち上がり、「二十一カ条条約の廃棄」や「国恥の雪辱」を叫んで大規模なデモを行った。国恥記念日は、単なる敗北の記憶ではなく、中国の民衆が近代的な国民国家意識を獲得し、排日愛国運動を組織していく上での精神的支柱として機能し続けた。
国際関係における影響と歴史的意義
日本の強硬な外交姿勢は、中国国内の反発を招いただけでなく、欧米列強、特にアメリカ合衆国との関係を急速に悪化させることとなった。アメリカは日本の中国進出を「門戸開放・機会均等」の原則に反するものとして警戒を強め、のちのワシントン会議(1921〜22年)における九カ国条約の締結や、山東権益の中国返還へとつながる包囲網を形成していく。
日本史の文脈において「国恥記念日」は、日本が日露戦争後の権益確保から一歩進み、中国の主権を侵す帝国主義的進出を本格化させたこと、そしてそれが東アジアにおける孤立化と中国側の激しい抵抗運動を招く決定的な転換点となったことを象徴する事象である。