海運業
【概説】
第一次世界大戦の影響による世界的な船腹不足と運賃高騰を背景に、日本において空前の好況を呈し、大正時代の大戦景気を牽引した産業。ヨーロッパ列強の商船がアジア水域から撤退した隙を突いて世界市場へ進出し、日本経済に莫大な外貨をもたらすとともに、いわゆる「船成金」を多数輩出した。
第一次世界大戦の勃発と世界的な船腹不足
1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦は、世界の海運市場に劇的な変化をもたらした。主要な海運国であったイギリスやドイツなどのヨーロッパ列強が戦争の当事国となり、多数の商船が軍用に徴発された。さらに、ドイツが実施した無制限潜水艦作戦によって連合国や中立国の商船が次々と撃沈されたことで、世界規模で深刻な船腹不足(貨物船の不足)に陥った。
この結果、海上輸送能力に対する需要が供給を大幅に上回り、海運運賃や傭船料(船の貸借料)は異常なまでの高騰を見せた。大戦勃発直前と比較して、運賃が数倍から数十倍に跳ね上がる路線も珍しくなく、世界の物流網は深刻な麻痺状態に陥りつつも、船を持つ者にとっては莫大な利益を得られる未曾有の売り手市場となったのである。
日本の海運業の世界的飛躍と「船成金」
ヨーロッパ列強がアジアの海運市場から撤退を余儀なくされたことは、主戦場から遠く離れ、かつ連合国側として参戦しながらも局地的な戦闘にとどまっていた日本にとって、最大のビジネスチャンスとなった。日本郵船や大阪商船、東洋汽船といった政府の保護を受ける「社船」だけでなく、特権を持たない民間船主である「社外船」が縦横無尽に活躍し、アジアのみならず北米やアフリカ、ヨーロッパの航路へも進出した。
異常高騰した運賃・傭船料により、日本の海運業は「ボロ儲け」と称されるほどの巨額の利益を上げた。わずか一隻のボロ船を運用するだけで莫大な富を築く者が続出し、内田信也や山下亀三郎、勝田銀次郎などのいわゆる「船成金」が誕生した。料亭で百円札に火をつけて暗闇で靴を探すという有名な風刺画は、まさにこの時代の船成金や造船成金をモデルにして描かれたものである。
造船業など関連産業への波及と日米船鉄交換契約
海運業の活況は、必然的に船そのものを作る造船業の飛躍的な発展を促した。船の価格(船価)も急騰したため、日本の造船所は昼夜を問わずフル稼働で新造船の建造にあたった。これにより、鉄鋼業などの重化学工業全般も多大な恩恵を受けることとなった。
しかし、1917(大正6)年にアメリカが自国の兵器生産を優先して鉄鋼の輸出禁止措置をとると、鉄鋼の大部分をアメリカに依存していた日本の造船業は深刻な危機に直面した。これに対し、日本政府と造船業者はアメリカ政府と粘り強い交渉を行い、1918年に日本がアメリカに完成した船舶を提供する代わりに、アメリカから鋼材を輸入するという日米船鉄交換契約を締結し、この難局を乗り越えた。この出来事は、当時の日本の海運・造船業が世界の物流においていかに重要な地位を占めていたかを如実に示している。
戦後恐慌による反動と歴史的意義
1918年末に大戦が終結すると、ヨーロッパ列強の商船が再び世界の海運市場に復帰し始めた。これにより異常な船腹不足は解消に向かい、1920(大正9)年に戦後恐慌が勃発すると、高騰していた運賃や船価は一転して暴落した。投機的な事業拡大を行っていた多くの中小船主や船成金たちは没落の憂き目を見ることとなった。
しかし、大正期における海運業の飛躍が日本経済に与えた歴史的意義は極めて大きい。海運業が稼ぎ出した莫大な運賃収入(貿易外受取)により、日本の国際収支は大幅な黒字となり、日露戦争以来の懸案であった巨額の対外負債を返済したばかりか、日本を一躍債権国へと転換させたのである。さらに、この好況期に蓄積された莫大な資本は、その後の日本における産業構造の近代化と重化学工業化を推し進める重要な基盤となった。