ニコライ2世

1917年の二月革命(三月革命)によって退位に追い込まれた、ロシア帝国最後の皇帝は誰か?
カテゴリ:
重要度
★★

ニコライ2世

1868年〜1918年

【概説】
ロシア帝国ロマノフ朝最後(第14代)の皇帝(在位1894〜1917年)。皇太子時代に訪日した際「大津事件」に遭遇したほか、日露戦争での対決、そしてロシア革命にともなう退位と処刑など、激動の近代日露関係に深く関わった人物である。

皇太子時代の来日と「大津事件」

ニコライ2世が皇帝に即位する前の1891(明治24)年、シベリア鉄道建設の起工式に出席する途上で日本を訪問した。この訪日中に、滋賀県大津市において警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷するという大津事件が発生した。

当時、大国ロシアとの軍事衝突(報復)を恐れた明治政府は、犯人を死刑に処するよう司法に強い圧力をかけた。しかし、大審院長であった児島惟謙は、刑法の規定に基づき「皇室に対する罪(大逆罪)」ではなく「普通謀殺未遂罪」を適用して無期徒刑(無期懲役)の判決を下した。この事件は、日本が近代国家として司法の独立を守り抜いた画期的な出来事として法制史上きわめて重要であり、ニコライ2世はその契機を作った人物として日本史に記憶されている。

極東進出政策と日露戦争

1894年に皇帝に即位したニコライ2世は、ロシア伝統の南下政策を継承し、東アジアへの進出を本格化させた。フランスからの資金援助を得てシベリア鉄道の建設を推進し、清朝の弱体化に乗じて満洲(中国東北部)の実質的な軍事占領を断行した。この動きは、朝鮮半島への影響力拡大を狙う日本との決定的な対立を生むこととなった。

日本はイギリスと同盟(日英同盟)を結んでこれに対抗し、1904(明治37)年に日露戦争が勃発した。ニコライ2世は自国の勝利を確信していたが、旅順攻略戦や日本海海戦での敗北、さらに国内で勃発した第1次ロシア革命(血の日曜日事件など)による混乱から、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介による和平交渉(ポーツマス条約)に応じざるを得なくなった。この敗戦は、ロマノフ朝の権威を大きく揺るがすこととなった。

ロシア革命による退位とシベリア出兵への影響

第一次世界大戦への参戦により、ロシアの社会・経済は破綻し、民衆の不満は極限に達した。1917年、首都ペトログラードでの労働者のストライキをきっかけに二月革命が勃発すると、ニコライ2世は退位を余儀なくされ、300年以上続いたロマノフ朝は滅亡した。

その後、レーニン率いるボリシェヴィキ政権(十月革命)により、ニコライ2世とその一家はシベリアのトボリスク、次いでエカテリンブルクへ幽閉された。1918年、反革命の白軍がエカテリンブルクに迫ると、革命政権(赤軍)の手によって、元皇帝一家は全員処刑された。このロシア革命とロマノフ朝の崩壊は、日本が大正期に反革命勢力を支援するために行ったシベリア出兵を誘発し、日本国内での米価格暴騰による米騒動や、寺内正毅内閣の退陣など、日本の内政と社会にも甚大な影響を及ぼした。

最後のロシア皇帝ニコライ二世の日記

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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