二月革命(三月革命) (にがつかくめい(さんがつかくめい)
【概説】
1917年春、ロシア帝国において労働者や兵士の蜂起によりロマノフ朝の帝政を打倒した民主主義革命。第一次世界大戦の長期化に伴う国民の窮乏を背景に首都ペトログラードで勃発し、皇帝ニコライ2世を退位に追い込んだ。ロシア革命の第一段階であり、同盟国として協調関係にあった日本を含む国際社会に多大な衝撃を与え、東アジアの国際秩序を激変させる契機となった。
ロマノフ朝の崩壊と二重権力の成立
第一次世界大戦に参戦したロシア帝国は、戦争の長期化によって経済が破綻し、国民は深刻な食料・燃料不足に苦しんでいた。1917年3月(旧暦2月)、首都ペトログラードで女性労働者によるパンを求めるデモが発生すると、これが大規模なゼネラルストライキへと発展した。政府が動員した軍隊の兵士たちも労働者側に同調して反乱を起こしたため、専制政治を維持することは不可能となり、皇帝ニコライ2世は退位を余儀なくされた。これにより、300年以上続いたロマノフ朝は滅亡した。
帝政崩壊後、ロシア国内には、自由主義的な貴族やブルジョワジーを中心とする臨時政府と、労働者や兵士の代表からなる自治組織ソヴィエトが同時に誕生した。この「二重権力」状態のもとで、臨時政府は連合国との同盟関係を重視して戦争を継続したため、国民の不満は収まらず、のちの十月革命(十一月革命)によるボリシェヴィキ政権(社会主義政権)の樹立へと歴史が動いていくこととなる。
日本への外交的衝撃とシベリア出兵への道
大正中期の日本にとって、ロシアの帝政崩壊は東アジア外交の前提を根底から覆す大事件であった。当時の日本は、日露戦争後に結んだ計4回にわたる日露協約に基づき、ロシアと互いの勢力範囲(満洲や蒙古)を画定・維持する協調路線をとっていた。また、第一次世界大戦においてもロシアは連合国側の重要な一翼を担っており、日本の軍需産業はロシアへの兵器輸出で潤っていた。
しかし、二月革命によって誕生した臨時政府は戦争継続を望んだものの、国内の混乱により東部戦線は崩壊に向かった。さらにその後の十月革命でボリシェヴィキが権力を握り、ドイツと単独講和を結んで戦争から離脱したことは、日本に強い危機感を与えた。日本政府は、ロシアの社会主義革命が東アジアに波及することを警戒し、またシベリアにおける権益確保を狙って、1918年に連合国とともにシベリア出兵を断行することとなる。
大正デモクラシーと国内社会運動への波及
二月革命は、日本国内の政治や思想にも直接的な影響を与えた。専制国家として知られたロシア帝国の崩壊は、日本における民主主義の希求、すなわち大正デモクラシーの潮流を強力に後押しした。知識人や民衆は「専制の打倒」を自らの課題と重ね合わせ、吉野作造らが提唱した民本主義の議論をいっそう活発化させた。
また、ロシア革命が進行するにつれて、日本の労働運動や社会主義運動も急速に先鋭化した。それまで冬の時代を迎えていた社会主義運動が息を吹き返し、労働組合の結成や小作争議が急増した。1918年に全国で勃発した米騒動などの民衆暴動も、ロシア革命の刺激や、シベリア出兵に備えた米の買い占めによる価格高騰が背景にあり、二月革命に端を発する世界情勢の激変は、大正期の日本社会のあり方を大きく揺るがすこととなった。