レーニン

ボリシェヴィキを率いて十月革命(十一月革命)を指導し、ソヴィエト政権を樹立した人物は誰か?
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重要度
★★★

レーニン

1870〜1924

【概説】
ロシアのボリシェヴィキの指導者であり、十月革命を成功させて史上初の社会主義国家であるソヴィエト政権を樹立した革命家。マルクス主義を帝国主義段階に発展させた理論家としても知られ、彼が主導した革命と国際共産主義運動は、大正時代の日本の社会運動や政治・外交にも決定的な影響を与えた。

ロシア革命の指導とソヴィエト政権の樹立

ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、マルクス主義を当時のロシアの歴史的条件に適用し、職業革命家を中心とした前衛党の必要性を主張した思想家・実践家である。1903年のロシア社会民主労働党の分裂に際しては、急進派であるボリシェヴィキを率いた。第一次世界大戦が勃発するとこれを「帝国主義戦争」と批判し、1917年の二月革命によって帝政が崩壊したのち、亡命先のスイスから帰国した。「四月テーゼ」を発表して「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えた彼は、同年11月(ロシア暦10月)の十月革命において武装蜂起を指導し、臨時政府を打倒して史上初となる社会主義政権を樹立した。

コミンテルンの創設と世界革命路線

レーニンは主著『帝国主義論』において、資本主義が高度に発達した独占資本主義の段階を「帝国主義」と定義し、これが列強間の戦争を不可避にする原因であると分析した。彼はロシア一国での革命にとどまらず、世界規模での社会主義革命を目指し、1919年にモスクワで第3インターナショナル(コミンテルン)を創設した。これにより、世界の共産主義運動はモスクワの指導下に置かれる体制が築かれ、同時にアジアなどの植民地・従属国における反帝国主義的な民族解放運動への積極的な支援が開始された。

日本への波及と大正期の社会運動

レーニンによるロシア革命の成功と新政権の樹立は、隣国である日本に激震をもたらした。日本政府は共産主義思想の波及を強く警戒し、1918年(大正7年)には連合国とともに革命干渉戦争であるシベリア出兵を決定した。しかし、この大規模な軍隊派遣を見越した商人たちによる米の買い占めが米価の異常な高騰を招き、全国規模の民衆暴動である米騒動を誘発する結果となった。この米騒動によって寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれ、本格的な政党内閣である原敬内閣の誕生へと繋がっていった。

一方、大正デモクラシーの風潮を背景に高揚しつつあった日本の労働運動や社会主義運動にとって、レーニンが指導した革命の実績は巨大な希望として受け止められた。コミンテルンの指導と援助を受ける形で、1922年(大正11年)には非合法下で日本共産党(第一次共産党)が結成され、堺利彦や山川均らが参加した。レーニンの思想と実践的な戦術は「マルクス・レーニン主義」として受容され、大正期から昭和戦前期にかけての日本の無産階級運動や左翼知識人の理論的支柱として、治安維持法による苛烈な弾圧下においても多大な影響力を持続したのである。

レーニン: 革命家の形成とその実践 (中公新書 241)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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