尼港事件

1920年、シベリア出兵中の日本軍と日本人居留民が、ニコライエフスクで過激派(パルチザン)に襲撃され全滅した事件は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
尼港事件(Wikipedia)

尼港事件 (にこうじけん)

1920年

【概説】
1920(大正9)年、シベリア出兵中にロシア極東のニコラエフスク(尼港)において、日本軍守備隊や日本人居留民が赤軍系パルチザン(抗日武装勢力)によって全滅させられた事件。ロシア革命の混乱期に発生した、日本側にとって最大級の惨劇。この事件は日本国内の世論を激昂させ、シベリア撤兵の遅延や北樺太の保障占領をもたらす大問題へと発展した。

事件の背景:シベリア出兵と過酷な孤立環境

1917年にロシア革命が勃発すると、日米英仏などの共同出兵(シベリア出兵)が行われた。日本は1918年から本格的に兵力を投入したが、他国が早期の撤退を模索する中、日本だけは領土的野心や東清鉄道の支配、共産主義の拡大(赤化)防止などを理由に駐留を継続していた。

事件の舞台となったニコラエフスク(日本名:尼港)は、アムール川河口に位置する要衝の港町であった。ここには日本の陸軍守備隊約300名(海軍の一部や陸軍家族を含む)と、数百名の日本人居留民が生活していた。しかし、冬になると周囲の海や河川が完全に結氷するため、外部からの増援や退路が断絶し、物理的に孤立するという致命的な地政学的弱点を抱えていた。

惨劇の発生:パルチザンの進駐と全滅

1920年2月、トリャピーツィン率いる約4000名の過激派赤軍系パルチザン(抗日・反白衛軍の武装勢力)が尼港を包囲した。圧倒的な兵力差を前に、日本軍守備隊は不戦を条件にパルチザンの市内進駐を認める協定を結んだ。しかし、パルチザン側が日本軍に武装解除を要求したことから事態は一変する。これを拒否した日本軍は3月12日に先制攻撃(一次戦闘)を仕掛けたが、数に勝るパルチザンに圧倒されて守備隊の大部分が壊滅し、生存者や居留民は監獄に収容された。

同年5月、流氷が解けて日本軍の救援部隊(多門二郎大佐率いる部隊)が尼港に接近すると、追い詰められたパルチザンは撤退を決定。その際、監獄に抑留されていた日本人居留民(石田領事一家を含む)や守備隊の生き残り、さらには現地のロシア人住民ら多数を虐殺し、街に放火して逃亡した(二次戦闘・虐殺)。これにより、守備隊・居留民を合わせて約700名超の日本人がほぼ全滅するという、未曾有の惨劇となった。

歴史的意義と影響:世論の硬化と北樺太の「保障占領」

尼港事件の報が日本国内に伝わると、新聞などのメディアは大々的に報じ、国民の対ソ感情は急激に悪化、激しい反ボリシェヴィキ世論が形成された。これにより、本来であれば無益なシベリア出兵を早期に切り上げるべきであったにもかかわらず、軍部や政府は撤兵の時期を逸することとなった。

日本政府は、ロシア側に責任ある対交渉相手(政府)が存在しないことを理由に、事件の賠償担保(保障占領)として、サハリン北部(北樺太)を軍事占領した。この保障占領は、1925(大正14)年に日ソ基本条約が締結され、両国間に正式な国交が樹立されて日本軍が撤退するまで、約5年間にわたって継続されることとなった。尼港事件は、日ソ間の初期の外交関係において、深い爪痕を残した象徴的な衝突事件であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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