原敬 (はらたかし)
【概説】
1918年の米騒動で退陣した寺内正毅内閣の後を継ぎ、日本初の本格的な政党内閣を組織した立憲政友会の第3代総裁。華族としての爵位を持たず衆議院に議席を置いたまま首相に就任したことから「平民宰相」と呼ばれ、大正デモクラシー期における政党政治の確立に多大な貢献を果たした。
「賊軍」の出自と政界への台頭
原敬は1856年、盛岡藩(現在の岩手県)の家老の家に生まれた。盛岡藩は戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍に抗したため、原は長らく「賊軍(朝敵)」の出身というコンプレックスと社会的障壁を背負うこととなった。薩摩・長州出身者が権力を独占する藩閥政治が全盛の明治期において、彼が国家の最高指導者にまで上り詰めたことは異例中の異例であった。
ジャーナリストを経て外務省に入省した原は、外務大臣であった陸奥宗光の知遇を得て頭角を現した。その後、伊藤博文が1900年に創立した立憲政友会の結成に尽力し、卓越した政治手腕と実務能力を発揮していく。内務大臣などを歴任したのち、1914年には西園寺公望の後を継いで立憲政友会の第3代総裁に就任し、政界における巨大な影響力を確立していった。
米騒動と「本格的政党内閣」の誕生
第一次世界大戦中の1918年(大正7年)、シベリア出兵を見越した米の買い占めなどにより米価が暴騰し、富山県の漁村から始まった暴動が全国へと波及する米騒動が発生した。軍隊を出動させてこれを弾圧した非政党内閣(超然内閣)の寺内正毅首相は、国民の激しい非難を浴びて総辞職を余儀なくされた。
この大正デモクラシーのうねりの中で、国民の不満を和らげるためにはもはや政党の力を借りるほかないと判断した元老の山県有朋や西園寺公望らは、原敬を後継の首相に推挙した。こうして誕生した原内閣は、陸軍・海軍・外務の各大臣を除くすべての閣僚を立憲政友会の党員で固めた。1898年の第1次大隈重信内閣(隈板内閣)に次ぐ政党内閣であったが、実質的な結束力や議会基盤の強固さから、原内閣こそが日本初の本格的政党内閣であると評価されている。爵位を辞退し衆議院議員の身分のまま首相となった原は「平民宰相」と呼ばれ、国民から熱狂的な歓迎を受けた。
四大政綱と内政における功罪
原内閣は、「教育の振興」「産業の奨励」「交通機関の整備」「国防の充実」といういわゆる四大政綱を掲げて積極的な政策を展開した。特に高等教育機関の拡充や、全国的な鉄道網の敷設(我田引鉄とも揶揄された利益誘導政治の側面を持つ)は、その後の日本の近代化に大きく寄与した。
また、1919年には衆議院議員選挙法を改正し、選挙権の納税資格を直接国税「10円以上」から「3円以上」へと引き下げ、同時に小選挙区制を導入した。これにより有権者数は大幅に増加し政友会に有利な状況を作り出したが、当時の社会運動が求めていた普通選挙の導入については「時期尚早」として強硬に反対した。この姿勢は、次第に普選運動家や学生、労働者からの失望と反発を招くこととなった。
国際協調外交の展開と突然の暗殺
外交面では、第一次世界大戦後の新秩序構築に向けて国際協調路線を歩んだ。1919年のパリ講和会議には西園寺公望らを全権として派遣し、日本の国際連盟への常任理事国としての加盟を実現させた。また、アメリカなどとの協調を重視し、のちのワシントン会議の開催にも前向きに応じるなど、帝国主義的な領土拡大から国際協調主義への転換を図った。
しかし、こうした政党本位の政治体制や、普通選挙への反対、相次ぐ疑獄事件(汚職事件)の発生、さらには社会主義運動への弾圧方針などは、急進的な青年層や右翼勢力の激しい憎悪を生んだ。1921年(大正10年)11月4日、原は関西へ向かうため訪れた東京駅の乗車口において、右翼の青年に短刀で刺殺された(原敬暗殺事件)。卓越した指導者を失った政界は混乱し、立憲政友会も分裂状態に陥るが、原が切り開いた「衆議院の多数党の党首が内閣を組織する」というシステムは、のちの「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣時代の礎となったのである。