国際連盟

ウィルソン米大統領の提唱により1920年に設立された、史上初の国際平和機構は何か?
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国際連盟

1920年〜1946年

【概説】
アメリカ大統領ウィルソンの提唱により、第一次世界大戦後の1920年に設立された史上初の国際平和機構。集団安全保障を理念として世界平和の維持と国際協力を目指した。日本は原加盟国として常任理事国を務めたが、満州事変を契機に1933年に脱退することとなる。

第一次世界大戦と国際連盟の創設

未曾有の犠牲者を出した第一次世界大戦の惨禍を踏まえ、アメリカ大統領ウィルソンが1918年に発表した「十四カ条の平和原則」に基づいて構想されたのが国際連盟である。1919年に締結されたヴェルサイユ条約の第1編に「国際連盟規約」として組み込まれ、1920年1月に正式に発足した。本部はスイスのジュネーヴに置かれ、史上初の恒久的な国際平和機構として、武力行使の制限、軍備縮小、国際紛争の平和的解決、そして加盟国による集団安全保障体制の確立が目指された。

日本の常任理事国就任と「人種的差別撤廃案」

日本は第一次世界大戦における戦勝国(五大国)としての地位を背景に、イギリス、フランス、イタリアとともに連盟の常任理事国に就任し、国際社会において大国としての地位を確固たるものとした。連盟創設の議論が行われたパリ講和会議において、日本代表団(首席全権は西園寺公望・牧野伸顕)は連盟規約に人種的差別撤廃案を盛り込むことを提案した。これは、当時欧米列強によって当然視されていた有色人種への差別撤廃を、国際会議の場で初めて公式に求めた画期的な提案であった。しかし、植民地支配への影響を危惧するイギリスや、白豪主義を掲げるオーストラリアの強硬な反対に遭い、議長であるウィルソンの「全会一致原則の適用」という強引な裁定によって否決された。この挫折は、その後の日本の対米感情や国際協調路線に暗い影を落とすこととなる。

新渡戸稲造の活躍と連盟の構造的限界

連盟の事務局次長には、日本の国際的教養人である新渡戸稲造が就任し、国際協調の架け橋として「知的協力委員会」の設立などに尽力した。しかし、国際連盟そのものは構造的な弱点を抱えていた。最大の提唱国であるはずのアメリカが、孤立主義をとる上院の反対により不参加となったほか、当初は敗戦国のドイツや社会主義国のソ連も排除されていた。また、総会や理事会の議決が原則として全会一致とされていたため、利害対立が起きた際に迅速かつ実効性のある制裁措置をとることが困難であり、平和維持機構としては不完全な側面を持っていた。

満州事変と日本の連盟脱退

大正期を通じて協調外交(幣原外交)を展開していた日本であったが、昭和に入り、連盟との決定的な対立を生んだのが1931年に勃発した満州事変である。清の元皇帝である溥儀を擁立して「満州国」の建国を強行した日本に対し、中華民国は連盟に提訴した。連盟はイギリスのリットンを団長とする調査団を派遣して実態を調査し、その報告書に基づいて日本の軍事行動を自衛権の発動とは認めず、満州国の不承認などを求める勧告案を採択した。1933(昭和8)年2月、連盟特別総会でこの勧告案が賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=現在のタイ)で可決されると、日本全権の松岡洋右は抗議の演説を行い、議場を退席した。翌3月、日本政府は国際連盟からの脱退を通告(規約により正式脱退は2年後の1935年)した。自ら創設に深く関わり、常任理事国を務めた国際協調の枠組みから離脱した日本は、これ以降国際社会における孤立化を深め、やがて日中戦争から太平洋戦争への道を突き進んでいくこととなる。

国際連盟 世界平和への夢と挫折 (中公新書)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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