南洋庁 (なんようちょう)
【概説】
第一次世界大戦後に日本の委任統治領となった南洋諸島を統治するために設置された施政機関。パラオのコロールに本庁が置かれ、それまでの海軍による軍政に代わって民政を敷いた。国際連盟の委任のもとで地域の産業開発や教育、インフラ整備などを進め、日本の太平洋進出の拠点としての役割を果たした。
南洋諸島の獲得と委任統治の開始
第一次世界大戦において、日本は日英同盟を口実に参戦し、当時ドイツ領であった赤道以北の南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島など)を占領した。大戦後のパリ講和会議および国際連盟の創設に伴い、これら諸島は日本の委任統治領(主権は国際連盟にあり、統治を他国に委ねる領土)として認められた。これを受けて日本政府は、それまで現地を管轄していた海軍の臨時南洋群島防備隊による軍政を廃止し、1922年に民間官僚主導の統治機関として南洋庁を創設した。
南洋庁の組織と植民地支配の展開
南洋庁の本庁はパラオのコロール島に置かれ、その下にサイパン、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートなどの主要島に支庁が設置された。南洋庁長官は内閣総理大臣(のちに拓務大臣など)の監督を受け、行政・司法・一部の立法権を含む強力な権限を行使した。政策としては、現地住民(チャモロ人やカナカ人)に対する同化教育(公学校の設置)や、近代的な医療制度・道路網の整備が進められた。また、国策会社である南洋興発株式会社が設立され、サイパン島やテニアン島を中心にサトウキビ栽培や製糖業、燐鉱石の採掘などが大々的に行われた。これにより、日本本土や沖縄から多数の移民が流入し、現地住民の人口を大きく上回るようになった。
国際連盟脱退と太平洋戦争下の崩壊
1933年、日本は満洲事変をめぐる対立から国際連盟を脱退した。本来であれば委任統治領は返還されるべきであったが、日本は南洋諸島を「帝国生命線」の要衝と位置づけ、実質的な領有(既得権益)を主張して占領を継続した。1930年代後半以降、日米対立の激化に伴い、南洋庁の支配地域は急速に要塞化・軍事基地化していった。1941年に太平洋戦争が勃発すると、南洋諸島は日米の激戦地(サイパン島の戦い、ペリリュー島の戦いなど)となり、南洋庁の行政機能は完全に崩壊した。1945年の日本の敗戦とともに南洋庁は正式に消滅し、これらの島々はアメリカ合衆国の信託統治領へと移行することとなった。