加藤友三郎 (かとうともさぶろう)
【概説】
明治後期から大正期にかけて活躍した海軍軍人、政治家。海軍大臣としてワシントン会議に全権として出席し、主力艦制限を受け入れてワシントン海軍軍縮条約を調印へと導いた。帰国後に首相(第21代)となり、軍縮の断行やシベリア撤兵を推進して大正期の国際協調外交の基盤を築いた人物である。
日露戦争での活躍と「八八艦隊案」の推進
加藤友三郎は安芸国(現・広島県)の藩士の家に生まれ、海軍兵学校を卒業後に海軍官僚としてのキャリアを積んだ。日露戦争においては、連合艦隊司令長官・東郷平八郎のもとで連合艦隊参謀長を務め、日本海海戦などの勝利に大きく貢献したことで知られる。実務能力の高さを買われた加藤は、1915(大正4)年に第2次大隈重信内閣の海軍大臣に就任すると、以降、寺内正毅内閣、原敬内閣、高橋是清内閣にわたって海相の地位を維持し、海軍の最高実力者として君臨した。
当時、海軍が悲願としていたのが、戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を基幹とする大艦隊を組織する八八艦隊案の完成であった。加藤は海相としてこの計画を強力に推進したが、この軍備拡張は国家財政を圧迫し、当時の日本の経済力では維持が不可能な限界に達しつつあった。こうした背景から、加藤は「アメリカと無制限の軍拡競争を行えば日本は自滅する」という冷徹な現実主義的見地を抱くようになっていく。
ワシントン会議と軍縮への英断
1921(大正10)年、アメリカ大統領ハーディングの提唱により、第一次世界大戦後の国際秩序と海軍軍縮を話し合うワシントン会議が開催された。原敬首相の強い要請を受け、加藤は帝国政府の首席全権としてワシントンへ赴いた。会議では、対米英6割とされる主力艦の保有比率制限に対して日本国内(特に海軍軍令部や対外強硬派)から激しい反発が起こった。
しかし、加藤は「国防は軍人の専有物ではない」「国力なき軍備は国家を滅ぼす」という信念のもと、国内の強硬派を抑え込んで妥協を決断した。これにより、対米英6割の比率を受け入れるワシントン海軍軍縮条約に調印。この決断は、第一次世界大戦後の国際協調体制(ワシントン体制)を構築する上で決定的な役割を果たすこととなった。
加藤友三郎内閣の発足と「ワシントン体制」の実践
帰国後の1922(大正11)年、高橋是清内閣の崩壊に伴い、加藤は元老・西園寺公望らの推薦を受けて内閣総理大臣に就任した(加藤友三郎内閣)。この内閣は、立憲政友会を準与党としつつも貴族院や官僚を中心とした非政党内閣であったが、加藤は自身が国際社会に約束した約束を実直に履行する姿勢を示した。
加藤内閣は、調印したワシントン海軍軍縮条約に基づいて建造中だった巨艦の廃棄など海軍軍縮を断行。さらに陸軍においても、山梨半造陸相のもとで大規模な兵員削減(山梨軍縮)を進めた。また、1918年から続いていたシベリア出兵の終結を決断し、シベリア撤兵を完了させて泥沼化した外征に終止符を打った。このように、加藤は自ら先頭に立って軍縮と国際協調を実践したが、首相在任中の1923(大正12)年8月、病(喉頭がん)のため急逝した。その誠実な政策実行力は、死後も国内外で高く評価された。