高橋是清内閣 (たかはしこれきよないかく)
【概説】
1921年11月、原敬首相の暗殺事件を受けて、大蔵大臣であった高橋是清が急遽組織した立憲政友会単独の政党内閣。前原内閣の政策路線を継承してワシントン会議に対処し、軍縮条約などに調印して協調外交を進めたが、閣内の不統一と党内対立により約7ヶ月の短命に終わった。
原敬の横死と急転直下の組閣
1921(大正10)年11月4日、当時の首相であった原敬が東京駅で暗殺された。この未曾有の事態に対し、元老たちは後継の調整を急ぎ、原内閣で大蔵大臣を務めていた高橋是清を後継の立憲政友会総裁、および内閣総理大臣に推薦した。こうして成立した高橋是清内閣は、前内閣の全閣僚をそのまま留任させるという、事実上の「居座り内閣」としてスタートした。高橋は「ダルマ宰相」として国民に親しまれた温厚な人物であったが、原のような強力な政党統率力には欠けており、これが後に内閣の命取りとなる。
ワシントン体制への参入と協調外交の実績
高橋内閣の発足直後から始まった最大の外交課題が、アメリカの提唱によるワシントン会議(1921年11月〜1922年2月)への対応であった。高橋内閣は原前内閣の方針を忠実に継承し、海軍大臣の加藤友三郎や駐米大使の幣原喜重郎らを全権として派遣した。この会議において、日本は主力艦の保有比率を制限するワシントン海軍軍縮条約や、中国の主権尊重を定めた九カ国条約、太平洋の現状維持を定めた四カ国条約などに調印した。これらの一連の合意により、日本は第一次世界大戦後の国際秩序であるワシントン体制へ本格的に参入し、大正デモクラシー期における協調外交の基礎を築くこととなった。
閣内不統一と政友会の分裂による自壊
外交面での成果とは裏腹に、内政および党運営において高橋は苦境に立たされた。強力な指導者であった原を失った立憲政友会では、党内の主導権争いが激化し、高橋の指導力不足が露呈した。特に、シベリア撤兵問題や財政政策、さらには選挙法改正をめぐり、閣内や党内で主流派と非主流派(床次竹二郎ら)の対立が表面化した。高橋は事態を打開するために内閣改造を試みたが、閣僚の更迭に失敗して閣内不統一を露呈する形となり、1922(大正11)年6月に総辞職を余余儀なくされた。わずか7ヶ月強の短命政権であり、その退陣後は加藤友三郎を首班とする非政党内閣(官僚内閣)へと政権が移行し、本格的な政党政治は一時的な停滞を迎えることとなった。