英米5・日3・仏伊1.67 (えいべいご・にちさん・ふついいってんろくなな)
【概説】
1922年に調印されたワシントン海軍軍縮条約において定められた、主要国における主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有総トン数の比率。アメリカ・イギリスの保有量をそれぞれ「5」とした場合、日本を「3」(対米英6割)、フランス・イタリアをそれぞれ「1.67」に制限した。第一次世界大戦後に加熱した海軍軍備拡張競争に歯止めをかけ、東アジアと太平洋における新たな国際秩序(ワシントン体制)を構築する基礎となった取り決めである。
ワシントン会議の招集と軍縮の背景
第一次世界大戦後、日米英の3国はさらなる海軍力の増強を目指し、巨大な主力艦を建設する「大艦巨砲主義」の競争を繰り広げていた。日本は「八八艦隊案」を掲げて国家財政の限界に挑むほどの建艦計画を進め、アメリカもまた「ダニエルズ・プラン」に基づく大艦隊建設を推進した。しかし、これに伴う財政負担は各国の国家財政を圧迫し、戦後不況にあえぐ国民からも強い批判を浴びることとなった。
このような状況下、1921年11月にアメリカ大統領ハーディングの提唱によりワシントン会議が開催された。会議の主な目的は、海軍軍縮による財政負担の軽減と、中国市場をめぐる日米間の対立緩和、そして戦後のアジア・太平洋地域における新たな国際秩序の樹立であった。
「対米7割」の主張と調印への妥協
会議において、アメリカ全権のヒューズは、各国が現在保有、あるいは建造中の主力艦を大幅に破棄し、保有比率を「英米5:日3:仏伊1.67(トン数換算で英米各52万5000トン、日本31万5000トン、仏伊各17万5000トン)」とする制限案を提示した。これに対し、日本の全権であった海軍大臣・加藤友三郎や駐米大使・幣原喜重郎らは、国防上の安全保障の観点から「対米7割(比率にして3.5)」を強く主張した。
交渉は難航したが、アメリカ側が太平洋における軍事拠点の現状維持(新たな要塞化の禁止)を提案したことで、日本側は妥協を決断した。これにより、日本は主力艦比率を「6割(日3)」に抑えられたものの、小笠原諸島や奄美群島などの防備を制限する代わりに、アメリカがフィリピンやグアム、イギリスが香港などの要塞化を進めないという言質を得た。結果として、西太平洋における日本の防衛的優位が確保されたと判断され、1922年2月にワシントン海軍軍縮条約が調印された。
軍縮比率が日本国内に与えた影響と歴史的意義
「英米5・日3・仏伊1.67」という比率の受け入れは、当時の日本の軍政において大きな転換点となった。加藤友三郎をはじめとする海軍穏健派(のちの条約派)は、「アメリカとの経済力の差を考慮すれば、軍拡競争を続けること自体が国力を疲弊させる」と考え、協調外交による国防の安定を選択した。これは、1920年代の「協調外交(幣原外交)」の基盤を形成することとなった。
しかし、海軍内部の強硬派(のちの艦隊派)は、この比率を「屈辱的な不平等条約」として激しく反発した。この不満は、1930年に補助艦の保有比率を定めたロンドン海軍軍縮条約の締結に際し、「統帥権干犯問題」という政治闘争へ発展することになる。大正期に結ばれた「英米5・日3・仏伊1.67」の比率は、一時的な軍事バランスを維持したものの、のちに日本がワシントン体制から離脱し、軍国主義へ傾斜していく遠因ともなったのである。