李漁 (りぎょ)
【概説】
中国の明末から清初にかけて活躍した文人、劇作家、出版者。彼が南京の邸宅「芥子園」から刊行した絵画テキスト『芥子園画伝』は江戸時代の日本に伝来し、日本の南画(文人画)の発展に決定的な影響を与えた。また、池大雅と与謝蕪村の競作による国宝『十便十宜図』の題材となった詩の作者としても知られる人物である。
明末清初の異色の文人・李漁の生涯
李漁は明の万暦39年(1611年)に生まれ、清の康熙19年(1680年)に没した。伝統的な知識人階級を目指して科挙を受験するも失敗し、明から清への王朝交代という激動期を経験するなかで、官途を諦めて文筆や出版などの民間芸術の世界で生きる道を選んだ。字は適我、号は笠翁(りゅうおう)などがある。
彼は戯曲(劇作)の執筆や劇団の主宰、通俗小説の創作、さらには造園や邸宅のデザインにいたるまで、多方面でその才覚を発揮した。南京に構えた邸宅「芥子園(かいしえん)」では出版業を営み、自作の戯曲や実用書、芸術書を次々と刊行し、当時の流行作家として名を馳せた。その旺盛なプロデュース能力と自由な生き方は、のちの日本の知識人たちにも強い憧れを抱かせることとなる。
『芥子園画伝』の伝来と日本南画(文人画)への影響
李漁の出版事業のなかでも、後世の日本美術史に最も大きな影響を与えたのが、彼が編纂・刊行した絵画の入門書(画譜)『芥子園画伝』である。これは山水画や花鳥画などの描き方を、基礎的な技法から著名な画家の画風にいたるまで、木版多色刷りの美しい図版とともに分かりやすく解説した画期的なテキストであった。
鎖国下の日本において、長崎を通じてこの『芥子園画伝』がもたらされると、本物の中国絵画に触れる機会が極めて限定されていた日本の絵師たちにとって、またとない教科書となった。江戸時代中期に興った、中国の文人(知識人)の精神性を理想とする「南画(文人画)」の旗手たち、すなわち池大雅や与謝蕪村らは、この『芥子園画伝』を徹底的に模写して基礎技法を習得し、独自の画風を確立させていったのである。
国宝「十便十宜図」にみる李漁の詩と日本文化
李漁が日本の文化人に与えた影響は、絵画の技法だけに留まらず、そのライフスタイルや思想にも及んだ。その代表例が、池大雅と与謝蕪村が合作し、日本の近世絵画の傑作(国宝)として名高い『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』である。
この作品は、李漁が別荘での隠棲生活を詠んだ「十便十二宜詩」を絵画化したものである。自然豊かな山中での暮らしにおける「10の便利さ(十便)」を池大雅が描き、「10の好都合な風情(十宜)」を 与謝蕪村が瑞々しいタッチで描き分けた。世俗を離れて自然と一体となり、詩や画を友として生きるという李漁の理想的な文人ライフスタイルは、江戸の文人たちにとっての精神的ユートピアとして深く受容されたのである。