八時間労働制
【概説】
労働者の健康や生活を維持・保護するため、1日の標準的な労働時間を8時間(週48時間)以内に制限する制度。第一次世界大戦後の大正デモクラシー期に高揚した労働運動において、労働環境改善の象徴的なスローガンとして掲げられ、日本における近代的な労働運動の発展を促す契機となった。
第一次世界大戦後の労働運動と国際的契機
1910年代後半、第一次世界大戦期の経済好況(大戦景気)とその後の戦後恐慌の中で、日本の労働環境は激変した。大戦中のインフレーションに対して労働者の賃金上昇が追いつかず、実質賃金が低下したことで生活は窮迫し、各地で労働争議が頻発した。このような状況下で、肉体的疲弊を防ぐ労働時間の短縮は、労働者にとって極めて切実な要求となった。
また、この運動を世界的な規模で後押ししたのが国際社会の動きである。1919年のヴェルサイユ平和条約に基づき、国際的な労働基準を策定する国際労働機関(ILO)が設立された。同年10月にワシントンで開催された第1回ILO総会において、「1日8時間・週48時間労働」を国際標準とする条約が採択された。この国際的な「人道主義的労働保護」の潮流は、日本の労働者や労働団体(友愛会など)を強く刺激し、八時間労働制の獲得運動を急速に推し進める原動力となった。
川崎造船所ストライキと日本初のメーデー
日本において八時間労働制が社会的に広く認知され、実際に導入される決定的な契機となったのが、1919年(大正8年)9月に神戸で発生した川崎造船所(および三菱造船所)の労働争議である。川崎造船所の労働者は、大がかりなサボタージュ(怠業)戦術を展開し、労働時間の短縮と賃金引き上げを強く要求した。これに対し、当時の社長であった松方幸次郎は、労働者の要求を先んじて受け入れる形で、日本で初めて本格的な八時間労働制の導入を断行した。この英断は他の大企業にも大きな衝撃を与え、同制度が国内の先駆的企業へ普及していくきっかけとなった。
さらに、翌1920年(大正9年)5月1日に東京の上野公園で開催された日本初のメーデーにおいても、「八時間労働制の実施」は「失業の防止」や「治安警察法第17条(労働運動を制限する条項)の撤廃」と並び、最重要のスローガンとして掲げられた。これにより、八時間労働制は単なる個別企業の労使交渉の枠を超え、大正デモクラシー期における労働階級全体の階級的団結を象徴する目標となった。
大正期の限界と戦後労働基準法への道程
しかし、大正期における八時間労働制の導入は、一部の先進的な大企業や官営工場(軍需工場など)での自発的な措置に留まり、全国的な法制化には至らなかった。当時の日本における唯一の労働保護法であった工場法(1911年制定、1916年施行)は、適用対象が「15歳未満の年少者および女性」に限定されており、その制限時間も「1日12時間(のちに11時間に短縮)」という極めて不十分なものであった。成人男性労働者の労働時間に対する法的規制にいたっては、全く存在しないに等しい状態であった。
政府や資本家側は、国際競争力の低下や国内産業の未発達を口実にILO条約の批准を拒み続け、法的な義務化を先送りした。さらに、1920年代後半からの昭和恐慌、治安維持法による労働運動の弾圧、そして国家総動員体制(戦時体制)への移行に伴い、労働時間はむしろ延長され、大正期に芽生えた八時間労働制の動きは一時的に圧殺されることとなった。日本においてすべての労働者を対象とした八時間労働制が法的に確立されるのは、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に労働基準法が制定されてからのことである。