小作争議 (こさくそうぎ)
【概説】
地主の土地を借りて耕作する小作農民が、地主に対して小作料の減免や耕作権の確立を求めて起こした社会運動。明治期に確立した寄生地主制の矛盾を背景とし、第一次世界大戦後の大正期から昭和初期にかけて全国的に激化し、日本の農村社会に大きな変容をもたらした。
寄生地主制の確立と小作農の困窮
小作争議の根本的な原因は、明治維新以降の資本主義発達のなかで形成された寄生地主制にある。地租改正以降、重い税負担や不況によって土地を手放す農民が相次いだ結果、一部の富裕な地主に土地が集中した。明治後期には全国の耕地面積の約半分が小作地となり、地主は自ら農業を営まずに小作料収入に依存するようになった。
小作農は地主に対して、収穫高の半分にも及ぶ高額な現物小作料を納める必要があった。さらに、小作契約の多くは口頭による不安定なものであり、地主の都合で容易に土地を取り上げられる「地主の横暴」がまかり通るなど、小作農の生活は常に困窮と不安に晒されていた。
大正デモクラシーと争議の激化・組織化
長らく沈黙を強いられていた小作農が声を上げ始めたのは、第一次世界大戦後の1910年代後半である。大戦景気による深刻なインフレーションと、それに起因する1918年(大正7年)の米騒動が、農村部に大きな衝撃を与えた。さらに、大正デモクラシーの思潮や都市部における労働運動の高揚に刺激され、農民たちの権利意識が急速に覚醒していった。
こうした中、1922年(大正11年)には、キリスト教社会事業家の杉山元治郎や賀川豊彦らを中心として、日本初の全国的な農民組合である日本農民組合(日農)が結成された。これにより、それまで村落単位で散発的に行われていた争議は、指導部を持った組織的な運動へと発展し、全国各地へと波及していった。
争議の性質の変化と昭和恐慌
大正期の小作争議の主な目的は、凶作時や米価下落時に一時的な「小作料の減免」を求める要求型の争議であった。農民たちは集団で交渉にあたり、地主側が応じない場合は、小作料の不払いや共同耕作の放棄といった手段に訴えた。
しかし、1920年代後半から1930年代の昭和農業恐慌期に入ると、争議の性質は大きく変化する。繭価や米価の大暴落により、地主(特に中小地主)自身も経済的に追い詰められ、小作人から土地を取り上げて自作農になろうとする、あるいは土地を第三者に売却しようとする動きが急増した。これに対し、生活の基盤を奪われまいとする小作農は「土地取り上げ反対(耕作権の確認)」を掲げ、激しい防衛型の争議を展開するようになった。この時期の争議は、地主と小作人が暴力的に衝突するなど、極めて深刻な様相を呈した。
政府の対応と歴史的意義
農村の階級対立の激化に危機感を抱いた政府は、弾圧と懐柔の両面から対策に乗り出した。治安維持法(1925年)などによる左翼的な運動指導者の検挙を進める一方で、1924年(大正13年)には小作調停法を制定し、裁判所に設けられた調停委員会を通じて当事者間の和解を図ろうとした。また、小作農に資金を貸し付けて自作農への転落を防ぐ「自作農創設維持規則」なども施行された。
しかし、寄生地主制という構造そのものに手をつける地主制の解体(農地法制の根本的改革)には踏み込めなかったため、これらの政策は対症療法にとどまった。日本における地主と小作農の構造的な対立が最終的な解決を見るのは、第二次世界大戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令に基づく農地改革によって、寄生地主制が完全に解体されるまで待たねばならなかった。