赤瀾会 (せきらんかい)
【概説】
1921年(大正10年)に結成された、日本初の社会主義女性団体。山川菊栄や伊藤野枝らが中心となり、資本主義体制の打破と女性の階級的解放を掲げて活動した。同年の第2回メーデーに参加して激しい弾圧を受けるなど、大正期の社会運動において戦闘的な足跡を残した。
結成の背景と女性解放運動の分岐
第一次世界大戦後の日本では、ロシア革命の影響や労働運動の高揚を背景に、社会主義思想が急速に普及した。これと並行して女性の権利獲得を目指す動きも活発化し、1920年には平塚らいてうや市川房枝らによって新婦人協会が設立されている。しかし、新婦人協会が治安警察法第5条の改正(女性の政治集会の参画制限撤廃)を求めるなど、現体制の中での法改正や既得権益の獲得(ブルジョア女性運動)を目指したのに対し、社会主義者たちはこれに批判的であった。資本主義そのものが女性抑圧の根源であると考え、無産階級の解放とともに女性解放を達成しようとする、より根本的な変革を求める潮流が生み出された。これが赤瀾会結成の背景である。
戦闘的な活動とメーデーへの参加
1921年4月、治安維持活動の第一線で活躍していた山川菊栄(社会主義運動家・山川均の妻)や伊藤野枝(アナキズム運動家・大杉栄のパートナー)らが中心となり、約30名の女性メンバーで赤瀾会が発足した。彼女らは結成直後の5月1日、東京の上野公園で開催された第2回メーデーに参加。赤と黒の旗を掲げ、「すべての人類を苦しみと圧迫から救い出す」といった過激なビラを配布しながらデモ行進を行い、社会に大きな衝撃を与えた。この行動により、多くの会員が治安警察法違反などで検挙された。その後もビラ配りや講演会などを通じ、女性労働者や一般女性への啓蒙を試みた。
弾圧、分裂、そして歴史的意義
赤瀾会の活動は、政府および警察の厳しい監視と激しい弾圧に晒された。また、内部的にも山川菊栄に代表されるマルクス主義(共産主義)派と、伊藤野枝に代表されるアナーキズム(無政府主義)派との対立が生じ、組織的なまとまりを欠くようになる。さらに同年10月には、主要メンバーによる「八日会」などの分裂運動も重なり、結成からわずか数ヶ月後の1921年末には事実上の壊滅状態となった。しかし、赤瀾会が示した「女性の抑圧は階級社会(資本主義)の構造に起因する」という認識は、その後の大正・昭和初期における無産婦人運動へと引き継がれ、日本の社会運動史・女性解放運動史において極めて重要なマイルストーンとなった。