大杉栄 (おおすぎさかえ)
【概説】
大正期における日本の無政府主義(アナーキズム)の代表的指導者。幸徳秋水らの刑死による「冬の時代」を経て、大正デモクラシー期における社会主義運動の再興を牽引した。1923年の関東大震災の混乱期に、憲兵大尉・甘粕正彦らによって虐殺された(甘粕事件)。
「冬の時代」の克服とアナ・ボル論争
1910年の大逆事件によって幸徳秋水をはじめとする主要な指導者が刑死し、日本の社会主義・労働運動は政府の激しい弾圧によって「冬の時代」と呼ばれる停滞期に入った。この沈滞期において、大杉栄は荒畑寒村らとともに1912年に文芸雑誌『近代思想』を創刊し、文学や哲学の紹介を通じて間接的に思想運動の火を灯し続けた。
第一次世界大戦後のロシア革命(1917年)を機に、日本でも再び社会主義運動が活発化すると、大杉は運動の牽引車として台頭した。しかし大杉は、ソ連的な中央集権的な国家権力を重視するボリシェヴィズム(ボルシェビキ主義)に対抗し、個人や労働組合の自由な結集によるアナーキズム(無政府主義)を主張した。この大杉を中心とする無政府主義派(アナ派)と、山川均や堺利彦らのレーニン主義・共産主義派(ボル派)との間で、運動の主導権や戦術をめぐる激しい「アナ・ボル論争」が展開され、日本の社会主義運動は二分されることとなった。
直接行動論と「生」の哲学
大杉は、議会を通じた改革(議会政策論)を否定し、労働者によるゼネラル・ストライキなどの「直接行動論」を掲げて労働組合運動への浸透を図った。また、その思想は単なる政治理論にとどまらず、個人の内発的な欲求や生命力を重視する「生の哲学」(ベルクソンの生命哲学などの影響)に根ざしていた。この徹底した自己解放の追求は、当時の平塚らいてうや伊藤野枝らとの関わり(いわゆる自由恋愛主義)とも結びつき、社会の既成道徳を揺るがすスキャンダルとしても世間の注目を浴びた。
関東大震災と甘粕事件による非業の死
1923年9月1日に発生した関東大震災は、大正デモクラシー期の社会運動に致命的な転換点をもたらした。震災による大混乱の中、「社会主義者や朝鮮人が暴動を起こす」というデマが流布され、戒厳令下で警察や自警団による取り揃えが激化。この混乱に乗じて、国家権力による急進的分子の排除が断行された。
大杉は同年9月16日、内縁の妻であり女性解放運動家でもあった伊藤野枝、およびわずか6歳の甥・橘宗一とともに憲兵隊に連行され、憲兵大尉の甘粕正彦らによって虐殺された(甘粕事件)。この事件は、日本政府が軍部を用いて社会運動家を不法に抹殺した象徴的な事件であり、カリスマ的指導者であった大杉の死は、その後の日本のアナーキズム運動に決定的な打撃を与えるとともに、大正デモクラシーの急速な終焉と軍部台頭の予兆を示す歴史的事件となった。