コミンテルン(第3インターナショナル)
【概説】
1919年、ロシア革命を成功させたウラジーミル・レーニンの提唱によりモスクワで創設された国際共産主義運動の指導組織。世界各国の共産党を自らの支部として位置づけて厳格な指示を与え、戦前の日本における社会主義・共産主義運動にも決定的な影響を及ぼした。
創設の背景と世界革命の理念
1917年のロシア革命によって史上初の社会主義政権を樹立したウラジーミル・レーニンは、資本主義体制を打倒するためには世界的な革命運動の連帯が不可欠であると考えた。そこで1919年、第一次世界大戦の勃発に際して事実上崩壊した第2インターナショナルに代わり、新たな国際共産主義組織としてコミンテルン(共産主義インターナショナル=第3インターナショナル)をモスクワに創設した。コミンテルンは、単なる各国の共産党の緩やかな連絡機関ではなく、各国の共産党を「コミンテルン支部」として厳格な中央集権的指導の下に置くという、極めて強い指令権限を持っていた。
日本共産党の結成とコミンテルンの指導
明治末期の大逆事件(1910年)以後の「冬の時代」を経ていた日本の社会主義運動は、第一次世界大戦後の大正デモクラシーの風潮とロシア革命の影響を受けて再び息を吹き返した。こうした中、コミンテルンの直接的な指導と資金援助を受け、1922年(大正11年)に堺利彦、山川均、荒畑寒村らによって非合法の日本共産党(第一次)が結成された。日本共産党は正式名称を「日本共産党(コミンテルン日本支部)」と称したことからもわかるように、モスクワのコミンテルン本部から下される指令や決議(テーゼ)を絶対的な活動基準として、日本国内の労働運動や農民運動の指導にあたった。
日本社会への影響と「テーゼ」の変遷
コミンテルンは、日本の政治体制や資本主義の発展段階を分析し、日本の運動方針を示す「テーゼ(綱領的文書)」を度々発表した。なかでも日本史において極めて重要なのが、1927年の27年テーゼと、1932年の32年テーゼである。
27年テーゼでは、当時のマルクス主義思想界を席巻していた福本和夫の理論(福本イズム)や山川均の理論(山川イズム)を厳しく批判し、当面の日本の革命を「ブルジョア民主主義革命」とし、そこから社会主義革命へ連続的に転化させるという方針を示した。さらに1932年に発表された32年テーゼでは、日本の天皇制を「絶対主義」と規定し、「絶対主義的天皇制の打倒」「地主的土地所有の廃止」などのスローガンを明確に掲げた。
これらのテーゼは、日本の左翼知識人や運動家に多大な理論的影響を与えたが、同時に天皇制の打倒を公然と掲げたことは、天皇主権の大日本帝国憲法体制下にある支配層に強い危機感を抱かせた。その結果、1925年に制定されていた治安維持法に基づく三・一五事件(1928年)や四・一六事件(1929年)といった徹底的な弾圧を招き、日本の共産主義運動は壊滅的な打撃を受けることとなった。
反ファシズム人民戦線とコミンテルンの解散
1930年代に入り、ドイツなどでファシズムが台頭すると、コミンテルンは1935年の第7回大会において従来の階級闘争至上主義から転換し、広範な反ファシズム・反戦勢力と提携する反ファシズム人民戦線戦術を採択した。日本でもこれに呼応して人民戦線の結成が模索されたが、日中戦争へ向かう戦時体制下における厳しい思想統制により、人民戦線事件(1937〜38年)などで関係者が一網打尽にされた。
その後、第二次世界大戦が勃発し、1941年にソ連が連合国側として参戦すると、ソ連は同盟国であるアメリカやイギリスとの協調関係を維持する必要に迫られた。他国の国内体制転覆(革命)を扇動するコミンテルンの存在は米英の警戒を招くため、ヨシフ・スターリンは1943年にコミンテルンの解散を宣言した。これにより、日本の共産主義運動における「コミンテルン支部」としての時代は終焉を迎えたが、その強固な理論的枠組みは、戦後の日本共産党の再建やマルクス主義歴史学(唯物史観)の展開に長く影響を残すこととなった。