第2次山本権兵衛内閣(震災内閣) (だいにじやまもとごんべえないかく)
【概説】
大正12年(1923年)の関東大震災発生の翌日に発足し、未曾有の国難における危機管理と復興を担った臨時内閣。政党色を排した「挙国一致(超然)」的性格を持ち、戒厳令の布告や帝都復興計画の策定にあたったが、同年12月に起きた虎の門事件の責任をとってわずか4ヶ月余りで総辞職した。
震災の直中に産声をあげた「震災内閣」
大正12年(1923年)8月24日、加藤友三郎首相が急逝したため、元老・西園寺公望らの推挙によって薩摩藩閥出身の宿老である山本権兵衛が後継首相に指名された。山本が組閣を進めていた最中の9月1日、南関東を巨大な地震(関東大震災)が襲った。東京が壊滅的な打撃を受けるなか、翌9月2日に焼け野原となった帝都で急遽親任式が行われ、第2次山本権兵衛内閣が発足した。この極限状態での成立から、同内閣は「震災内閣」とも通称される。
山本は、挙国一致での国難突破を目指して立憲政友会(高橋是清総裁)や憲政会(加藤高明総裁)などの各政党に協力を仰いだが決裂し、結果として内相兼帝都復興院総裁に後藤新平、法相に平沼騏一郎などを配した非政党の官僚・超然内閣の色彩が強い陣容となった。
治安維持と「帝都復興計画」をめぐる葛藤
発足直後の山本内閣の急務は、被災地の治安維持と救済であった。政府は震災当日の夜に戒厳令を東京市および隣接地域に布告し、軍隊を出動させて治安維持にあたらせた。しかし、混乱の中で「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマが広がり、自警団や軍・警察によって多数の朝鮮人や中国人、さらに社会主義者が虐殺される惨劇(甘粕事件や亀戸事件など)が発生し、国家権力による弾圧と混乱の責任が問われることとなった。
一方で、内相の後藤新平は東京を近代的な国際都市へと生まれ変わらせるべく、総額30億円とも言われる壮大な「帝都復興計画」をぶち上げた。しかし、財政難を懸念する政党(特に衆議院の多数を占める政友会)や貴族院の猛烈な反対にあい、予算は大幅に削減されて当初の理想からは後退した計画へと縮小された。これが、大正デモクラシー期における政党政治の台頭と官僚主導の内閣との確執を象徴する出来事となった。
虎の門事件による引責と退陣の歴史的意義
復興への道筋を模索していた大正12年12月27日、帝国議会の院外へ向かっていた摂政宮(のちの昭和天皇)の車列が、無政府主義者の難波大助に狙撃される虎の門事件が発生した。幸いにも摂政宮は無事であったが、皇室の警備に致命的な不備があったこと、また思想的取り締まりを怠ったことの責任は極めて重いとされた。
山本内閣は事件の翌日、即座に表向きの「引責」として内閣総辞職を決定し、翌大正13年(1924年)1月7日に退陣した。この後、超然内閣としての清浦奎吾内閣が誕生したことで政党側の不満が爆発し、第二次護憲運動へと歴史が動いていくこととなる。第2次山本権兵衛内閣は、大正後期の過渡期において、不慮の災害とテロリズムという二つの危機に翻弄された短命ながらも歴史の転換点となった内閣であった。