戒厳令 (かいげんれい)
【概説】
戦時や事変などの国家の非常事態に際し、司法・行政の権限を軍部の掌握下に置き、国民の諸権利を制限する法令。大日本帝国憲法下において、日露戦争後の講和反対暴動や関東大震災、二・二六事件などの重大な社会混乱時に発令され、治安維持の名目のもとで軍事統制が敷かれた。
明治憲法体制における戒厳令の創設
日本の近代における戒厳令は、1882年(明治15年)に太政官布告第36号として制定された。のちに制定された大日本帝国憲法(明治憲法)第14条においては、「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」と定められ、宣戦布告などと並ぶ天皇の重要な大権(天皇大権)の一つに位置づけられた。
同令によると、戒厳には外国との戦争に対応する「臨戦戒厳」と、国内の反乱等に対処する「合囲(ごうい)戒厳」の2種類が存在した。いずれの場合も、発令された地域においては地方の行政権・司法権が軍隊の指揮下(戒厳司令官)に移り、市民の信書の開封、集会や言論、結社の自由が著しく制限されることとなった。本来は対外戦争を想定した軍事法であったが、次第に国内の民衆運動や社会不安を抑え込むための強力な治安維持手段として利用されていくこととなる。
関東大震災と「行政戒厳」の適用
大正時代における代表的な発令例が、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災直後に発せられたものである。未曾有の災害による大混乱のなか、山本権兵衛内閣は治安維持のために「緊急勅令(勅令第398号)」により、戒厳令の一部を準用する形で東京市および隣接郡部に適用した。これは厳密には戒厳令が定める要件(戦争や事変)を満たしていなかったため、法的便宜として超法規的に措置されたことから「行政戒厳」と呼ばれる。
この震災時の戒厳令発令にともない、軍隊が東京周辺に出動して警備にあたった。しかし、流言蜚語(りゅうげんひご)が飛び交う極限状態のなかで、軍隊や警察、民間の自警団によって数多くの在日朝鮮人や中国人が虐殺される惨劇が引き起こされた。さらに、この混乱に乗じて無政府主義者の大杉栄らが軍警に殺害された甘粕事件や、社会主義運動家が殺害された亀戸事件など、軍部や権力による左翼・社会主義者の弾圧(白色テロ)が公然と行われる温床となった。
近代日本における発令の系譜と歴史的意義
戒厳令(およびその準用)は、明治から昭和にかけて数回にわたり発令された。最初の実質的な適用は、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)に不満を持つ民衆が暴動を起こした1905年(明治38年)の日比谷焼打ち事件の際であり、東京市内に適用されて民衆暴動を鎮圧した。
さらに昭和期に入ると、1936年(昭和11年)の二・二六事件において、陸軍青年将校らによる反乱部隊を鎮圧するため、東京市内に本格的な戒厳令が敷かれた。このとき設置された戒厳司令部は、新聞やラジオなどのマスメディアを完全に統制し、「下士官兵に告ぐ」といった投降勧告を出すことで反乱軍を孤立化させ、事態を収束に導いた。
このように、日本の近代史における戒厳令は、災害や政治的動乱といった国家の危機を克服するための治安維持措置として機能した一方で、国家権力(特に軍部)が合法的に国民の基本的人権を停止し、社会運動や反体制的な動きを力で抑え込む強力な支配ツールとなった点に、大きな歴史的意義と負の側面が存在する。この歴史的反省から、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法下においては、このような強力な大権を持つ戒厳令の制度は廃止された。