虎の門事件
【概説】
1923年(大正12年)12月27日、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が、東京の虎の門で無政府主義者の難波大助に狙撃された暗殺未遂事件。関東大震災直後の混乱と社会主義運動への弾圧を背景に発生し、第2次山本権兵衛内閣が引責総辞職に追い込まれるなど、大正後期の政治と社会思想に大きな衝撃を与えた。
事件の背景:大正デモクラシー下の思想的混迷と弾圧
第一次世界大戦後の日本は、大正デモクラシーの進展に伴い、労働運動や社会主義運動が活発化していた。しかしその一方で、国家による思想統制も強化されつつあった。とりわけ、事件の同年に発生した関東大震災(1923年9月)の混乱期において、社会主義者が官憲に殺害された亀戸事件や、甘粕雅彦憲兵大尉らによってアナーキストの大杉栄らが殺害された甘粕事件は、左派知識人や青年層に強い国家への不信感と絶望を植え付けた。
犯人である難波大助は、山口県の衆議院議員を父に持つ資産家の出身であったが、明治末期の大逆事件への疑問や労働運動への傾倒、さらには震災時の朝鮮人・社会主義者虐殺に対する憤りから、天皇制(皇室)の打倒による社会変革を志すようになった。難波は、当時の国家権力の象徴であり、病床の大正天皇に代わって政務を執っていた摂政宮裕仁親王を標的と定めたのである。
事件の発生と山本内閣の総辞職
1923年12月27日、第48通常帝国議会の開院式に出席するため、摂政宮を乗せた御料車は皇居を出発し、貴族院へと向かっていた。その途中、東京市麹町区の虎の門交差点付近において、群衆に紛れていた難波大助が仕込み杖式の散弾銃を御料車に向けて発砲した。弾丸は車の窓ガラスを貫通し、車内にいた東宮侍従が軽傷を負ったものの、幸いにして摂政宮自身に怪我はなかった。難波はその場で取り押さえられ、現行犯逮捕された。
この前代未聞の不祥事に対し、震災復興の途上にあった第2次山本権兵衛内閣は、重大な警備上の責任を痛感した。内閣は直ちに表向きの辞表を提出し、摂政宮による慰留にもかかわらず、最終的に閣僚全員の総辞職を決定した。これにより、関東大震災からの帝都復興計画を主導していた内務大臣・後藤新平らの復興策も挫折を余儀なくされた。
治安統制の強化と政治への影響
難波大助は翌1924年11月に大逆罪によって死刑判決を受け、その2日後に執行された。この事件は、日本政府に対して国家体制の危機感を強く植え付ける結果となった。山本内閣の総辞職後に成立した清浦奎吾内閣は、貴族院を擁護基盤とする特権官僚中心の「超然内閣」であり、これが世論の激しい反発を招いて第2次憲政擁護運動を誘発することとなる。
一方で、皇室に対する直接的なテロ行為が行われた事実は、社会主義や無政府主義(アナーキズム)に対する国家的な排除・取り締まりをさらに正当化する口実となった。この思想統制の強化の流れは、1925年の治安維持法の制定へと直接的・間接的につながり、大正デモクラシーの自由な気風が徐々に失われ、昭和の国家主義体制へと傾斜していく決定的な契機の一つとなった。