裕仁親王(昭和天皇) (ひろひとしんのう(しょうわてんのう)
【概説】
大正天皇の長男で、父の病気療養に伴い大正10年(1921年)から摂政を務めた皇族。関東大震災直後の虎の門事件で狙撃されるも難を逃れ、1926年に第124代天皇(昭和天皇)として即位し、激動の近現代史を歩んだ人物である。
皇太子時代とヨーロッパ外遊
1901年(明治34年)、のちの大正天皇である嘉仁親王の第一男子として誕生した。学習院では乃木希典から、東宮御学問所では東郷平八郎らから帝王学と軍事教育を受けた。1921年(大正10年)には、日本の皇太子として史上初となるヨーロッパ外遊を半年間にわたり実施した。イギリス、フランス、ベルギーなどを歴訪し、特にイギリスのジョージ5世との交流などを通じて、イギリス王室のあり方や立憲君主制の実態に直接触れた。この経験は、その後の彼の「君主は憲法に従うべきである」という政治的信条に多大な影響を与えたとされる。
摂政就任と虎の門事件
ヨーロッパから帰国した直後の1921年11月、大正天皇の病状悪化に伴い、満20歳で摂政に就任し、天皇の国事行為を代行することとなった。1923年(大正12年)の関東大震災に際しては、自ら被災地を視察し復興に向けた詔書を発するなどの活動を行った。
しかし同年12月、帝国議会開院式に向かうため乗車していた車が、虎の門において無政府主義者の難波大助に銃撃される虎の門事件が発生した。裕仁親王は奇跡的に怪我を免れたものの、皇室の権威を揺るがすこの前代未聞のテロ事件は社会に大きな衝撃を与えた。警備の不備の責任を問われる形で、当時の第2次山本権兵衛内閣は総辞職を余儀なくされている。
大日本帝国憲法下の国家元首として
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い践祚(せんそ)し、元号を「昭和」と改めた。即位後は、満州事変(1931年)から日中戦争、太平洋戦争へと突入していく激動の時代において、大日本帝国憲法下の国家元首(大元帥)として君臨した。1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、側近を殺害されたことに激怒し、自ら近衛師団を率いて反乱軍を鎮圧する強い意志を示した。
一方で、戦争遂行の過程においては「立憲君主としての枠組み」を重んじたため、内閣や統帥部が決定した事項を覆すことは少なく、結果として軍部の独走を止められなかったという限界も指摘される。しかし、戦局が絶望的となった1945年(昭和20年)8月には、御前会議におけるいわゆる「聖断」によってポツダム宣言の受諾を決定づけ、自らの玉音放送により国民に終戦を告げた。
象徴天皇としての新たな役割
敗戦後の1946年(昭和21年)1月1日には、いわゆる「人間宣言」を発して天皇の現人神(あらひとがみ)としての神格性を否定した。さらに、1947年に施行された日本国憲法によって、天皇の地位は主権者から「日本国および日本国民統合の象徴」へと大きく転換した。
戦後の復興期には、荒廃した国土と傷ついた国民を励ますために全国各地を巡幸(戦後巡幸)し、国民との新たな結びつきを構築した。高度経済成長から冷戦終結期に至るまで、民主主義国家としての日本の歩みとともに「象徴天皇」としてのあり方を模索・体現し続けた。1989年(昭和64年)1月7日に崩御するまで、歴代最長となる62年余りの在位期間を記録した。