第二次護憲運動
【概説】
1924(大正13)年、貴族院を中心に組織された清浦奎吾内閣の成立に反発し、政党内閣の確立を目指して展開された政治運動。憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の「護憲三派」が結集して普通選挙の断行などを掲げ、同年の総選挙で大勝を収めて加藤高明内閣を成立させた。
貴族院を中心とする清浦内閣の成立
1923(大正12)年末の虎ノ門事件(摂政宮狙撃事件)の責任をとって第二次山本権兵衛内閣が総辞職すると、元老・西園寺公望は次の内閣総理大臣として枢密院議長の清浦奎吾を推奏した。清浦は官僚派の重鎮であり、陸海軍と外務大臣を除く全閣僚を、自身がかつて影響力を持っていた貴族院の最大会派「研究会」を中心とする貴族院議員から登用した。
この極端な組閣は、衆議院に基盤を持つ政党を完全に無視したものであり、時代錯誤な「特権内閣」「超然内閣」として世論の激しい反発を招くこととなった。大正デモクラシーの機運が高まり、政党政治の成熟が求められていた当時において、特権階級による政治の独占はもはや容認できないものであった。
護憲三派の結成と政友会の分裂
清浦内閣の成立を受け、衆議院の主要政党は直ちに打倒に動いた。1924年1月、加藤高明率いる憲政会、高橋是清率いる立憲政友会、犬養毅率いる革新倶楽部の三党の党首が会談し、政党内閣の確立と普通選挙の断行を掲げて提携することを合意した。これが護憲三派である。
しかし、当時の衆議院第一党であった立憲政友会は、この運動への参加を巡って激しく対立した。護憲を貫く高橋総裁らに対し、床次竹二郎らは清浦内閣を支持して政権に接近しようと図り、集団離党して新たに政友本党を結成した。これにより政友本党が第一党となり、立憲政友会は第三党へと転落したが、結果的に政友会は純化され、護憲運動への姿勢をより鮮明にすることとなった。
第15回総選挙における護憲三派の圧勝
護憲三派からの激しい倒閣運動に直面した清浦内閣は、衆議院を解散して国民に信を問う道を選んだ。こうして1924年5月に行われた第15回衆議院議員総選挙は、「特権階級の横暴打破」や「普選断行」をスローガンとする護憲三派と、政府与党となった政友本党との真っ向勝負となった。
大正デモクラシーの洗礼を受けた世論やジャーナリズムは護憲三派を熱烈に支持し、選挙の結果、憲政会が151議席を獲得して第一党に躍進した。立憲政友会(100議席)と革新倶楽部(30議席)を合わせると、護憲三派は衆議院(定数464)で絶対多数を制し、見事な圧勝を収めた。一方、政府の支援を受けた政友本党は議席を大きく減らして惨敗した。
加藤高明内閣の成立と「憲政の常道」
総選挙での惨敗を受けて清浦内閣は総辞職し、代わって衆議院第一党となった憲政会総裁の加藤高明を内閣総理大臣とする護憲三派内閣が成立した。この内閣の下で、1925(大正14)年には納税資格を撤廃した普通選挙法が制定され、大正時代を通じて叫ばれ続けた国民の政治参加の拡大という目標が達成された。同時に、社会主義運動を取り締まるための治安維持法も制定されている。
第二次護憲運動の最大の歴史的意義は、衆議院で多数を占める政党の党首が組閣するという「憲政の常道」の慣行を決定づけた点にある。これ以降、1932(昭和7)年の五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されるまでの8年間にわたり、憲政会(のちに立憲政友会から離脱した勢力と合同し立憲民政党となる)と立憲政友会の二大政党による本格的な政党内閣の時代が続くこととなった。