俸給生活者(サラリーマン) (ほうきゅうせいかつしゃ)
【概説】
大正時代から昭和初期にかけて増加した、企業や官公庁に雇用され毎月一定の給料(俸給)を得て生活する新中間層の人々。職住分離による電車通勤や洋服の着用など、近代的な都市生活のスタイルを確立し、大衆文化の主要な担い手となった。
新中間層の誕生と背景
第一次世界大戦の勃発(1914年)に伴う大戦景気により、日本の資本主義は飛躍的な発展を遂げた。重化学工業化が進展し、企業の規模が拡大・近代化されると、経営や事務、技術開発を専門に担うホワイトカラーの需要が急増した。また、国家機能の拡大により官公庁の職員が増加し、高等教育機関の整備に伴って教員なども増えていった。
これらの人々は、旧来の地主や資本家、あるいは独立した自営の商工業者(旧中間層)とは異なり、組織に雇用されて毎月一定の給料を得ることから「俸給生活者(サラリーマン)」と呼ばれた。彼らは近代日本の都市部において「新中間層」と呼ばれる階層を形成し、大正デモクラシー期から昭和初期にかけて、社会の新たな主役として台頭していった。
都市化と新しいライフスタイルの形成
俸給生活者の出現は、都市の景観や人々の生活様式を一変させた。彼らの多くは、都心のオフィスビルに洋服を着て出勤し、仕事が終わると郊外の自宅へ帰るという「職住分離」の生活を送った。これをインフラ面で支えたのが、都市部における私鉄網の整備である。
阪急電鉄の小林一三に代表されるように、鉄道会社は沿線の宅地開発を進め、俸給生活者向けに月賦(ローン)で買える建売住宅を提供した。玄関脇に洋室を設けた「文化住宅」が流行し、ターミナル駅と郊外を結ぶ電車通勤という、現代に続くライフスタイルが定着した。休日は家族そろってターミナルデパート(百貨店)で買い物や食事を楽しむなど、大正モダンと呼ばれる近代的な消費生活の象徴となったのも彼らである。
大衆文化の消費者としての役割
一定の高等教育を受け、安定した収入と余暇時間を持つ俸給生活者は、大正時代に花開いた大衆文化の最大の消費者であった。彼らは新聞や『中央公論』『改造』などの総合雑誌、さらには1冊1円で販売された「円本」を積極的に購読し、活字文化を大衆レベルへと押し上げた。
また、1925年(大正14年)に始まったラジオ放送や、活動写真(映画)、スポーツ観戦の普及も、彼らの余暇活動と結びついて急速に発展した。政治的にも、労働運動や社会主義思想、自由主義的な気風に触れる機会が多く、都市部における世論形成において重要な役割を果たすことになった。
家族形態の変化と「サラリーマン」の悲哀
彼らの生活形態は、日本の伝統的な家族制度にも変化をもたらした。進学や就職を機に地方の農村から都市に出てきた俸給生活者の多くは、親世代と同居せず、夫婦と未婚の子供のみからなる核家族を形成した。また同時期には、タイピストや電話交換手など「職業婦人」と呼ばれる働く女性たちも増加し、新しい男女関係や家族観が芽生え始めた。
しかし、その生活は決して常に安定していたわけではない。1920年代後半からの慢性的な不況や、1929年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌の時代に入ると、彼らの生活も脅かされるようになった。企業の倒産や人員整理によって多くの失業者が街に溢れ、小津安二郎監督の映画タイトルにもなった「大学は出たけれど」という流行語が生まれた。資本主義経済の波に翻弄され、雇用不安に怯えるサラリーマンの光と影は、すでにこの時代から存在していたのである。