宝塚少女歌劇団(たからづかしょうじょかげきだん)
【概説】
阪急電鉄の創始者である小林一三が、箕面有馬電気軌道の終点・宝塚温泉の集客を目的として結成した、未婚の女性のみによる劇団。大正デモクラシー期の都市大衆文化の開花を背景に、モダンな洋風レヴューや演劇で人気を博した。近代日本における私鉄資本による沿線開発・レジャー事業と、大衆娯楽が結びついた象徴的な事例である。
私鉄経営モデルと宝塚新温泉の誘客策
大正時代初期、実業家の小林一三が率いる箕面有馬電気軌道(のちの阪神急行電鉄、現・阪急電鉄)は、沿線の不動産開発や住宅地分譲を精力的に行っていた。小林は、平日の鉄道利用者を増やすためには沿線の終点に人々を引きつけるデスティネーション(目的地)が必要であると考え、1911年に兵庫県の宝塚に「宝塚新温泉」を開業した。
この温泉地における家族向けの呼び物(アトラクション)として、1913年に組織された「宝塚唱歌隊」が前身となり、翌1914(大正3)年に「宝塚少女歌劇団」として初の公演を行った。当時の演目は『ドンブラコ』(桃太郎を題材にしたお伽歌劇)などであり、温泉の入場者は無料で観劇できるシステムであった。この取り組みは、単なる鉄道会社によるレジャー事業にとどまらず、日本の近代私鉄経営における「鉄道・住宅・レジャー」の一体型ビジネスモデルを確立する先駆例となった。
「清く正しく美しく」と都市大衆文化の受容
小林一三は劇団のモットーとして「清く正しく美しく」を掲げ、出演者を未婚の女性に限定した。これは、当時の演劇や芸能に対する社会的な偏見を払拭し、中流階級の家族連れが安心して楽しめる「健全な国民劇」を目指したためである。劇団員は「生徒」と呼ばれ、技術と教養を身につけるための養成機関として、のちの宝塚音楽学校が設立された。
大正デモクラシー期には、都市のサラリーマン層(新中間層)を中心に、洋風のライフスタイルや娯楽を好む大正モダンの気風が広がった。宝塚少女歌劇団は、それまでの伝統的な歌舞伎や新派劇とは異なる、西洋的な音楽やダンスを取り入れた演劇を提供し、この都市中間層の需要を的確に捉えた。1927(昭和2)年には、日本初の本格的なレヴューである『モン・パリ』を上演して空前のブームを巻き起こし、東京や海外へも進出するなど、日本を代表する大衆娯楽へと成長していった。1940年には、現在の名称である「宝塚歌劇団」へと改称された。