トーキー(発声映画)

1920年代末から普及し始めた、従来の無声映画(活動写真)に対して、音声付きの映画を何と呼んだか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
トーキー(Wikipedia)

トーキー(発声映画) (とーきー(はっせいえいが)

1920年代末~

【概説】
映像と音声(台詞や音楽など)が完全に同期した映画のこと。1920年代末から、それまでの主流であった無声映画(サイレント映画)に代わって急速に普及した。昭和初期の都市大衆文化(昭和モダン)を象徴するメディア技術の革新である。

サイレントからトーキーへの移行と『マダムと女房』

1920年代までの日本映画は、映像のみの無声映画(サイレント映画)であり、劇場では「活動弁士」による語りや生演奏の楽団が不可欠であった。しかし、1927年にアメリカで世界初の長編トーキー『ジャズ・シンガー』が公開されると、その波は日本にも押し寄せた。

日本における初の本格的な国産トーキー映画は、1931(昭和6)年に松竹蒲田撮影所で制作された五所平之助監督の『マダムと女房』である。この作品の成功により、日本の映画界は一気にトーキー時代へと突入することとなった。大正デモクラシー期から昭和初期にかけて花開いた「昭和モダン」の風潮の中で、リアルな音を伴う映画は、モダンガールやモダンボーイをはじめとする都市大衆に熱狂的に受け入れられた。

活動弁士・楽士の衰退と労働運動

トーキーの登場は、日本独自の映画文化に甚大な影響を与えた。無声映画時代に映画の人気を左右する主役級の存在であった活動弁士や、劇場伴奏を受け持っていた楽士たちは、トーキーの普及によって一転して失業の危機に立たされた。

これに対し、弁士や楽士たちは各地でトーキー化反対の同盟罷業(ストライキ)を起こすなど激しい抵抗運動を展開した。しかし、技術革新による映画の合理化と大衆の音響映画への需要を止めることはできず、1930年代半ばには多くの弁士が廃業や転職を余儀なくされ、映画興行の主役は完全にスクリーンの中のスターへと移行した。

映画産業の近代化とマスメディアへの成長

トーキー映画の制作には、高度な録音技術の導入や、防音設備を備えた近代的なスタジオの建設が必要であり、興行側にも映写機の買い替えや音響設備の設置といった巨額の設備投資が求められた。

このため、映画産業は資本力のある大手映画会社(松竹、東宝、日活など)による寡占化が進み、産業としての近代化が急激に進展した。ラジオの普及と並び、音と映像を伴うトーキー映画は、強力な情報発信力を持つ巨大なマスメディアへと成長を遂げ、後の戦時体制下における世論誘導やプロパガンダの道具としても利用されていく契機となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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