雑誌『キング』

1925年に講談社から創刊され、国民的な娯楽雑誌として発行部数100万部を突破した大衆雑誌は何か?
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★★★

雑誌『キング』

1925年〜1957年

【概説】
1925(大正14)年、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が創刊した大衆娯楽雑誌。徹底した読者本位の編集方針のもと、日本で初めて発行部数100万部を突破し、1920年代における大衆文化やマス・メディアの本格的な成立を象徴する存在となった。

創刊の背景と「大衆」の誕生

第一次世界大戦後の日本は、著しい工業化と都市化が進み、いわゆる大正デモクラシーの風潮のなかで新中間層(サラリーマン層)が増大していた。また、義務教育の普及によって国民の識字率が飛躍的に向上したことで、活字文化を享受できる巨大な読者層が形成されつつあった。このような社会構造の変化を背景に、一部の知識人やエリートに向けた教養主義的な出版物ではなく、一般大衆に向けた娯楽の需要が高まっていたのである。

大日本雄弁会講談社の創業者である野間清治は、この巨大な潜在読者層に着目し、老若男女・知識の高低を問わず誰でも楽しめる「万人向きの国民的雑誌」の創刊を構想した。こうして誕生したのが雑誌『キング』であった。

「面白くて為になる」圧倒的な普及劇

『キング』の編集方針は「面白くて為になる」というスローガンに集約される。誌面には、大衆小説、講談、落語、実用記事、教訓話、さらには読者の投稿欄まで、あらゆるジャンルが網羅されていた。道徳的で修身的な要素を含みつつも、何より娯楽性を最優先したこの方針は、都市部だけでなく農村部の読者をも強く惹きつけた。

創刊号は、事前の大々的な広告キャンペーンの甲斐もあって74万部という当時の常識を覆す売り上げを記録した。さらに、1928(昭和3)年の新年号ではついに発行部数100万部を突破し、その後も150万部という驚異的な部数に達した。分厚い本誌に豪華な付録をつける販売戦略も当たり、『キング』は日本の出版史上空前の大成功を収めた。

同時代のメディア発達と大衆文化

雑誌『キング』が創刊された1925(大正14)年は、日本でラジオ放送が開始された年でもある。また、翌1926年には改造社が1冊1円で文学全集を販売する円本(えんぽん)ブームを巻き起こした。さらに、映画のトーキー(発声映画)化やレコード音楽の普及など、1920年代後半はメディアの「マス化(大衆化)」が一気に進展した時期であった。

『キング』の成功は単なる一出版社の業績にとどまらず、日本社会が本格的な大衆消費社会および情報社会へと移行したことを示す歴史的指標である。活字メディアが全国津々浦々に均質な娯楽と情報を提供したことで、国民意識の統合や大衆文化の標準化が強力に推進されることとなった。

戦時体制下の弾圧と終焉

昭和10年代に入り、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大していくと、国家による言論統制が強化された。1943(昭和18)年、敵性語の排除を求める軍部の圧力により、『キング』は『富士』への改題を余儀なくされた。この時期の誌面は戦意高揚を目的とした国策協力の色合いを強めていった。

戦後の1946(昭和21)年に再び『キング』の誌名で復刊されたものの、戦後の社会価値観の激変や、週刊誌の台頭をはじめとする娯楽の多様化により、戦前のような圧倒的な支持を取り戻すことはできなかった。部数の低迷が続き、1957(昭和32)年をもって休刊となり、大衆文化の一時代を築いた国民的雑誌はその役割を終えた。

『キング』の時代――国民大衆雑誌の公共性 (岩波現代文庫)

大衆雑誌『キング』の驚異的な部数拡大を通じて、メディアが形成した近代日本の国民意識と公共性の本質に迫る一冊。

都市大衆文化の成立: 現代文化の原型 1920年代 (有斐閣選書 876)

震災復興と都市化が加速する1920年代を舞台に、現代日本の文化様式がいかにして形作られたのかを解き明かす名著。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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