鼻
【概説】
大正期に発表された芥川龍之介の短編小説であり、彼の文壇デビューおよび出世作となった文学作品。古典説話に取材しながら、長すぎる鼻に悩む僧侶の心理を通して、人間の自尊心や他者の不幸を面白がる「傍観者の利己主義(エゴイズム)」を理知的に描き出した。
説話文学の近代心理主義的再解釈
『鼻』は、1916(大正5)年2月、同人誌『新思潮』(第四次)の創刊号に発表された。本作の最大の特徴は、古典説話集である『宇治拾遺物語』の「池尾の禅珍内供の鼻の事」や『今昔物語集』の記述をベースにしながら、それを近代的な心理主義の手法で再構成した点にある。これは、芥川の初期の代表的な創作スタイルである「王朝もの(説話もの)」の先駆となった。
主人公である禅智内供(ぜんちないぐ)は、顎の下まで垂れ下がる五寸(約15センチ)もの長い鼻を持つ高僧である。彼は俗世を超越すべき僧職にありながら、自身の醜い容姿を深く気に病み、傷つきやすい自尊心(プライド)を抱えていた。芥川は、内供が弟子に鼻を踏ませるなどして短くするプロセスや、短くなった後に周囲から向けられる嘲笑、そして再び鼻が元に戻った際に抱く奇妙な安堵感という一連の心理的葛藤を、ユーモアを交えつつ精緻に描き出した。単なる昔話の近代語訳にとどまらず、人間の内面に潜む自己欺瞞や虚栄心を鋭く告発した点に、本作の文学的価値がある。
「傍観者の利己主義」の提示と同時代への意義
本作において、芥川が最も鋭く描き出したのが「傍観者の利己主義」と呼ばれる人間のエゴイズムである。内供が長い鼻に悩んでいたとき、周囲の人々は同情する素振りを見せながらも、陰では彼を嘲笑していた。しかし、内供が鼻を短くすることに成功し、コンプレックスを克服すると、人々は同情する余地を失ったために、かえって不愉快になり、以前よりも露骨に内供を嘲笑するようになる。芥川は作中で、他人の不幸に同情しながらも、その者が不幸を脱すると、落胆し、時には再び不幸に陥ってほしいとさえ願う、人間の醜い心理の普遍性を浮き彫りにした。
大正期の日本文学界は、個人の赤裸々な現実を告白する自然主義文学が行き詰まりを見せ、これに対抗する新たな文学潮流が模索されていた。そのような状況下で発表された『鼻』は、理知的な構成と文章の洗練さを重んじる新思潮派(新現実主義)の台頭を決定づける作品となった。近代日本文学の巨人である夏目漱石は、本作を「大変面白い」と激賞する手紙を芥川に送り、彼の才能を絶賛した。この漱石の評価がきっかけとなり、芥川は一躍文壇の寵児となり、大正文学を代表する作家へと躍進することとなった。