菊池寛 (きくちかん)
【概説】
大正から昭和前期にかけて活躍した新思潮派の小説家、劇作家、およびジャーナリスト。理知的な「テーマ小説」や大衆小説で絶大な人気を博すとともに、総合雑誌『文藝春秋』を創刊した。敏腕編集者・実業家としての顔も持ち、芥川賞・直木賞の創設を通じて日本の文壇ジャーナリズムの構築に多大な貢献を果たした。
新思潮派としての出発と「テーマ小説」の確立
菊池寛は香川県高松市に生まれ、苦学の末に京都帝国大学文科大学を卒業した。学生時代から芥川龍之介や久米正雄らと交友を結び、彼らとともに第三次・第四次『新思潮』に参加して文壇への足がかりを掴んだ。白樺派の理想主義や、自然主義文学に見られる私小説的傾向を批判し、理知的で明快な解釈に基づく新現実主義(新思潮派)の代表的作家となった。
初期の菊池は、人間の心理的葛藤や道徳的な問題を論理的に描破する「テーマ小説」と呼ばれる手法を提唱した。仇討ちの無意味さと人間のエゴイズムを描いた『恩讐の彼方に』や、主君の暴君化の心理を解明した『忠直卿行状記』、家族の愛憎劇を扱った戯曲『父帰る』などはその代表作であり、その劇的な筋立てと明確な主題は多くの読者の共感を呼んだ。
大衆文学への転換と『真珠夫人』の熱狂
大正中期以降、菊池は純文学の枠を超え、読者の娯楽性を追求する通俗小説(大衆文学)へと活動の軸足を移していった。1920年(大正9年)から新聞連載された『真珠夫人』は、華やかな上流階級を舞台にした愛憎劇であり、空前の大ベストセラーとなった。
この背景には、大正デモクラシー期における都市中間層(サラリーマン層)の形成と、それに伴う活字メディアの読者層の爆発的な拡大があった。菊池のエンターテインメント性に富んだ作品は、大正教養主義から昭和の「円本」ブームや大衆文化時代へと至る架け橋となり、彼自身も莫大な富と文壇における巨大な影響力を手に入れることとなった。
『文藝春秋』の創刊と文壇の組織化
作家として頂点を極めた菊池は、1923年(大正12年)に私費を投じて雑誌『文藝春秋』を創刊した。当初は友人たちと楽しむ同人誌的な小冊子であったが、菊池の持ち前のジャーナリストとしての勘と編集的手腕により、座談会企画やゴシップ記事などを取り入れ、たちまち部数を伸ばして日本を代表する総合雑誌へと成長させた。
また、菊池は作家が職業として自立できるよう、生活保障や著作権保護の仕組み作りにも奔走した。日本文藝家協会の設立を主導するなど、文学者を組織化し、旧来の孤高な芸術家という存在から、近代社会における社会的地位を持った「職業作家」へと転換させる上で決定的な役割を果たした。
芥川賞・直木賞の創設とその歴史的意義
菊池の功績の中で今日最もよく知られているのが、1935年(昭和10年)の芥川賞と直木賞の創設である。若くして世を去った盟友・芥川龍之介(純文学)と直木三十五(大衆文学)の名を冠したこの文学賞は、新人・中堅作家を発掘し、文壇に登竜門を設ける画期的なシステムであった。
これらの賞は、雑誌の売り上げを伸ばすためのメディアミックス戦略(イベント化)という実業家・菊池の計算に基づくものでもあったが、結果として日本の文学に強固な権威付けと大衆的な関心をもたらした。文学を一部の知識人から広く大衆のものへと解放し、日本の出版ジャーナリズムの礎を築き上げた点において、菊池寛の近代日本文化史における意義は極めて大きい。