鞍馬天狗 (くらまてんぐ)
【概説】
大正から昭和にかけて作家の大佛次郎が執筆した、日本を代表する大衆時代小説シリーズ。幕末の京都を舞台に、覆面姿の志士「鞍馬天狗」こと倉田典膳が、新選組などの佐幕派と対峙しながら縦横無尽に活躍する痛快活劇である。都市化とメディアの発達を背景に生まれた大衆文化を象徴する作品であり、後の歴史娯楽作品に多大な影響を与えた。
大衆文学の興隆と「鞍馬天狗」の誕生
大正時代は、第一次世界大戦後の都市化の進展や義務教育の普及、さらに総合雑誌や新聞、安価な「円本(えんぽん)」の流通などを背景に、庶民が広く楽しむための大衆文学(大衆小説)が急速に発展した時期であった。それまでの明治期の文学が、主に知識人向けの「純文学」や、旧来の講談調の読物であったのに対し、知識と娯楽を融合させた新しい近代小説が求められていた。
このような時代背景のもと、作家の大佛次郎(おさらぎじろう)は1924(大正13)年、雑誌『ポケット』に『鞍馬天狗』の第1作を発表した。西洋文学にも通じていた大佛は、単なる立ち回り(ちゃんばら)にとどまらず、スピーディーなストーリー展開と論理的な構成、心理描写を取り入れた新たな時代小説の様式を確立し、爆発的な人気を獲得した。
描かれた幕末観と知識人としての主人公像
『鞍馬天狗』の主人公である倉田典膳(くらたてんぜん)は、白頭巾(のちに黒頭巾)で素顔を隠し、卓越した剣技で悪を討つヒーローであるが、その本質は無益な殺生を嫌う平和主義者であり、広い視野を持った知識人として描かれている。本作が執筆された大正デモクラシー期から昭和初期にかけての日本は、軍国主義の足音が近づく不安定な社会情勢下にあり、大佛は主人公の口を借りて、戦争や暴力への嫌悪、人道主義的な思想を語らせた。
また、本作における宿敵・新選組や近藤勇は、単なる邪悪な悪役としてではなく、それぞれの信念に基づいて動く好敵手として立体的に描写された。この「開明的な志士」対「滅びゆく旧体制の武士」という対比構造は、近代以降の日本人が抱く「幕末・維新」の歴史的イメージを形成する上でのプロトタイプ(原型)となった。
メディアミックスの先駆と歴史的意義
『鞍馬天狗』は活字メディアにとどまらず、黎明期にあった日本映画(無声映画・トーキー)と結びつくことで、国民的人気を不動のものとした。特に戦前から戦後にかけて、俳優の嵐寛寿郎が主演した映画シリーズは広く愛され、頭巾を被り杉作少年を従えて馬で駆けつける鞍馬天狗のビジュアルは、日本における「正義の味方」の定番イメージとなった。
本作は、それまで低俗とみなされがちだった時代小説を、大人の鑑賞に堪えうる近代的なエンターテインメントへと昇華させ、昭和期の吉川英治や司馬遼太郎らへと続く、日本歴史小説の系譜を切り開いた文化史的記念碑と言える。