津田左右吉

『古事記』や『日本書紀』の神話部分を文献学的に批判し、皇室の神聖性を否定したとして昭和初期に著書が発禁処分となった歴史学者は誰か?
カテゴリ:
重要度
★★★

【参考リンク】
津田左右吉(Wikipedia)

津田左右吉 (つだそうきち)

1873年〜1961年

【概説】
明治から昭和期にかけて活躍した日本の歴史学者、思想史家。『古事記』や『日本書紀』の文献批判を通じて神話づくりの意図を合理的に解明し、近代的な日本古代史学を確立した。しかし、その実証的な研究が皇国史観と対立し、昭和戦前期に著書の発禁や起訴処分を受けたことで知られる。

近代的な日本古代史学の確立と史料批判

津田左右吉は、東京専門学校(現在の早稲田大学)で学び、のちに東洋史学の権威である白鳥庫吉の指導を受けた。彼の最大の功績は、『古事記』および『日本書紀』(いわゆる「記紀」)に対する徹底した史料批判(文献批判)を行ったことにある。

1919年(大正8年)の『古事記及日本書紀の新研究』や1924年(大正13年)の『神代史の研究』などの著作において、津田は記紀に記された神代の物語や初期天皇(神武天皇から仲哀天皇など)の事績が、そのままの歴史的事実ではないと主張した。彼はこれらの記述が、6世紀以降の大和政権(朝廷)が自らの皇位の正統性や日本統治の由来を合理化するために作為・編纂したものであると論証したのである。天皇の神格化が当然視されていた時代において、神話を歴史から切り離し、合理的な解釈を試みた彼の研究は、日本の古代史研究を近代的な学問へと引き上げる画期的なものであった。

皇国史観の台頭と津田事件

大正デモクラシーの自由な学問的空気の中で高く評価されていた津田の研究であったが、昭和に入り軍部が台頭し、国家主義的な統制が強まると状況は一変する。1940年(昭和15年)は「皇紀2600年」の祝賀の年であり、日本政府は神武天皇の即位を歴史的事実として国民に強調し、国威発揚を図っていた。このような時代背景の中、記紀の記述を疑う津田の学説は、建国の精神を冒涜するものとして激しい非難を浴びることとなった。

蓑田胸喜ら右翼陣営からの執拗な攻撃を受けた結果、同年に津田の主要著作4冊が発禁処分となり、早稲田大学教授の辞任を余儀なくされた。さらに、出版法違反(皇室の尊厳を冒涜した罪)で起訴され、禁錮3ヶ月(執行猶予2年)の有罪判決を受けた(のちに時効免訴)。この一連の弾圧事件は「津田事件」と呼ばれ、昭和戦前期の思想統制や学問の自由の抑圧を象徴する出来事として歴史に刻まれている。同時期の滝川事件(1933年)や天皇機関説事件(1935年)と並び、ファシズム体制下における国家の言論弾圧の凄惨さを物語っている。

戦後の名誉回復と学史的意義

1945年(昭和20年)の敗戦によって皇国史観が崩壊すると、津田は一転して「軍部や超国家主義に屈しなかった自由主義的歴史学者」として脚光を浴びることになった。戦後の日本古代史研究は、津田が確立した文献批判の手法を出発点として全面的に再構築されていった。1949年(昭和24年)には、その長年の学問的功績が認められ文化勲章を受章している。

一方で、戦後の津田は唯物史観(マルクス主義歴史学)の流行に対しては強く批判的な立場を貫き、象徴天皇制を擁護するなど、伝統的な国民感情を重んじる思想家としての側面も持ち合わせていた。津田左右吉の生涯とその学問は、政治や国家思想がいかに歴史学を翻弄するか、そして学問の自由がいかにして守られるべきかという重い問いを現代の私たちに投げかけている。

古事記及び日本書紀の研究 完全版

日本神話の成立過程と文献的背景を緻密に考証した、神話学研究における金字塔的な一冊。

中国思想史 (講談社学術文庫 2706)

春秋戦国時代から現代に至る広大な思想の変遷を体系的に解き明かす、中国哲学理解の必読書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 幕府に将軍警護のための「浪士組」結成を提案しながら、上洛後に尊王攘夷の兵として利用しようと企てた人物は誰か?
Q. 札差たちが莫大な利益を背景に見せた、粋で派手な生活様式や文化を何と呼ぶか。
Q. 708年に唐の「開元通宝」をモデルにして鋳造され、律令国家が本格的に流通させることを目指した貨幣は何か?