柳田国男
【概説】
農商務省の官僚から在野の学者に転じ、『遠野物語』などを著して日本における「民俗学」を確立した思想家・民俗学者。急激な近代化のなかで顧みられなかった無名の庶民を「常民」と名付け、彼らの生活文化や口承伝承から日本人の基層文化を解明しようと試みた。
官僚としての出発と農村問題への直面
柳田国男は播磨国(現在の兵庫県)の儒学者の家に生まれ、東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省してエリート官僚の道を歩んだ。法制局参事官などを歴任する一方で、農政に関わる官僚として全国の農村を視察する機会に恵まれた。この視察を通じて、柳田は明治政府が推進する上からの近代化と資本主義の波に呑まれ、疲弊していく農村の現実を目の当たりにする。彼は農民の貧困を救済するための農政を志向したが、政策という制度的なアプローチだけでは農民の抱える根本的な問題や、彼らの精神世界をすくい取ることには限界があると感じるようになった。この農政への挫折と農村社会への深いまなざしが、のちに民俗学という新たな学問を打ち立てる重要な原動力となった。
『遠野物語』の刊行と民俗学の黎明
官僚として働く傍ら、柳田は文学や郷土研究にも強い関心を持っていた。1910(明治43)年、岩手県出身の青年・佐々木喜善から聞いた遠野地方に伝わる妖怪、精霊、神隠しなどの不思議な伝承を文学的な筆致でまとめ、『遠野物語』を自費出版した。この著作は、単なる奇譚の収集にとどまらず、近代化によって消えゆく「山人(やまびと)」の存在や非合理的な信仰の世界を記録し、当時の文明開化一辺倒の社会に対して一石を投じるものであった。この時期、南方熊楠などとも交流を深め、次第に歴史の表舞台に登場しない人々の精神世界や伝承へ学問的関心を移していくことになる。
官僚辞職と「常民」概念の提唱
1919(大正8)年、貴族院書記官長を最後に官僚を辞し、朝日新聞の客員(論説委員)などを経て、本格的に在野の学者としての活動を開始した。柳田は、従来の歴史学が支配階層の残した公的な文献史料のみに依存していることを批判し、文字を持たない無名の庶民を「常民(じょうみん)」と定義した。そして、常民が日々の生活のなかで伝えてきた民話や伝説(口承文芸)、信仰、生活用具、年中行事などを史料として扱い、日本人の歴史を内側から再構築しようと試みた。1935(昭和10)年には「民間伝承の会」(のちの日本民俗学会)を設立し、全国の郷土研究者を組織化して、独自の学問としての「日本一国定俗学(日本民俗学)」を体系化した。
柳田民俗学の歴史的意義と後世への影響
柳田国男の最大の功績は、エリートや政治を中心とした歴史観を転換させ、一般民衆の生活文化に学問的な光を当てたことにある。大正から昭和にかけての日本社会は、都市化と工業化が急速に進み、古くからの共同体や伝統文化が解体されていく激動の時代であった。柳田の民俗学は、失われつつある日本人の「故郷」や基層文化を記録し、近代化によって見失われがちであった日本人のアイデンティティを学問的に問い直すという壮大な試みであった。折口信夫や渋沢敬三といった優れた後継者や協力者にも恵まれた彼の学問は、のちの歴史学、文化人類学、社会学などに多大な影響を与え、現代においても日本の精神史を理解する上で不可欠な視座を提供し続けている。