八木秀次 (やぎひでつぐ)
【概説】
大正から昭和時代にかけて活躍した日本の電気工学者。教え子の宇田新太郎とともに、超短波用の画期的な指向性アンテナである「八木・宇田アンテナ」を発明した。日本の電波工学・通信技術の先駆者であり、戦後は大学総長や参議院議員を務め、科学技術立国の推進に尽力した人物。
「八木・宇田アンテナ」の発明と画期的な技術
八木秀次は、東京帝国大学を卒業後にイギリス、アメリカ、ドイツへ留学し、最先端の電磁波研究に触れた。帰国後の1919年、東北帝国大学(現在の東北大学)の教授に就任し、教え子の宇田新太郎とともに超短波の研究を開始した。そして1920年代半ば、特定の方向に強く電波を送り、また受信することができる指向性アンテナを開発した。これが八木・宇田アンテナである。
このアンテナは、電波を放出・受信する金属棒(放射器)のほかに、電波を反射する「反射器」と、電波を導く「導向器」を一定の間隔で並べるという、極めてシンプルかつ合理的な構造を持っていた。それまで困難とされていた超短波通信に、劇的な感度の向上と指向性の確保をもたらしたこの発明は、世界の電波工学における記念碑的業績となった。
日本国内での過小評価と、欧米におけるレーダー応用
大正期の日本において、八木らの発明は「実用性に欠ける」として学界や産業界、さらには陸海軍からも過小評価された。日本国内で特許は取得したものの支援は薄く、八木はアメリカで特許を出願・取得せざるを得なかった。これに対し、欧米の技術者はこの発明の重要性にいち早く注目し、「Yagi antenna(ヤギ・アンテナ)」として広く知られるようになった。
第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発すると、欧米(特にイギリスやアメリカ)は八木・宇田アンテナを応用して高性能の「レーダー(電波探知機)」を開発し、航空機や艦艇に搭載して実戦に投入した。これによって連合国軍は夜間や悪天候下でも日本軍の動きを正確に把握し、戦局を有利に進めた。シンガポールを占領した日本軍が、イギリス軍の兵器マニュアルの中に「YAGI」という記述を発見し、それが自国の学者の発明であったことを知って驚愕したという逸話は、日本の科学技術軽視の姿勢を象徴する悲劇的な実話として語り継がれている。
戦後の足跡と科学技術立国への貢献
戦後の八木は、日本を科学技術によって再建することに尽力した。大阪帝国大学総長や東京工業大学学長などの要職を歴任し、後進の育成に努めるとともに、日本学術会議の創設などにも参画した。さらに1953年には参議院議員に当選し、政治の場から科学技術庁の設置など国の科学技術振興体制の整備を強力に推進した。
1956年にはこれらの一連の功績から文化勲章を受章した。八木の発明したアンテナは、昭和30年代以降の高度経済成長期において、テレビ放送の爆発的な普及を支える主役となり、日本中の家庭の屋根に「魚の骨」のような形状のアンテナが林立することとなった。八木の生涯は、基礎研究がのちの巨大産業や国民生活にどれほど甚大な影響を与えるかを示す、日本の近代科学史における重要な先例となっている。