北清事変 (ほくしんじへん)
【概説】
1900年、中国(清)で発生した義和団の蜂起に同調した清国政府が列強に宣戦布告し、日本やロシアなどの8カ国連合軍によって鎮圧された事件。世界史における義和団事件(義和団の乱)の過程で起こった国家間戦争の側面を指す。この事件を契機としたロシアの満州占領が、のちの日英同盟や日露戦争へと直結していくこととなった。
義和団の蜂起と清朝の宣戦布告
1895年の日清戦争敗北以降、列強による中国の半植民地化(中国分割)が急速に進行した。これに対する民衆の反発が高まる中、山東省で白蓮教系の秘密結社を中心に「扶清滅洋」(清を助け、西洋を打ち滅ぼす)をスローガンに掲げる義和団が蜂起した。彼らはキリスト教の教会や鉄道施設などを破壊しながら勢力を拡大し、1900年(明治33年)には首都・北京に入城した。
当時の清朝の実権を握っていた西太后ら保守派は、義和団の勢いを利用して列強の干渉を排除しようと目論み、義和団を支持して列国に宣戦布告を行った。これにより、各国の公使館区域が義和団と清国正規軍によって包囲される事態となった。世界史的には「義和団事件(義和団の乱)」と呼ばれるが、日本においては清国北部で起きた一連の事変として「北清事変」と呼称される。
八カ国連合軍の出兵と日本の台頭
公使館包囲の報を受けた列強は、自国民の保護と居留地の防衛を名目に八カ国連合軍(日本、ロシア、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア)を編成し、清への武力干渉を開始した。この中で最大の兵力を拠出したのが日本とロシアであった。
特にイギリスは南アフリカ戦争(ボーア戦争)などを抱えて極東へ大軍を派遣する余裕がなく、地理的に近い日本に対して積極的な出兵を要請した。日本政府はこれに応じ、第5師団を中心とする約2万の兵力を派遣した。日本軍は連合軍の主力として北京入城作戦で中心的役割を果たし、軍紀の厳正さや戦闘能力の高さによって、欧米列強からの国際的評価を大きく高め、一等国としての地位を認めさせる契機となった。
北京議定書の締結と清の半植民地化
1900年8月、連合軍が北京を制圧すると西太后らは西安へ逃亡し、事変は事実上終結した。翌1901年、清朝は列強11カ国(出兵した8カ国にスペイン、オランダ、ベルギーを加えた)との間に北京議定書(辛丑条約)を締結した。
この条約により、清朝は列強に対して莫大な賠償金(4億5000万両)の支払いを約束させられたほか、北京駐在公使館の防衛を名目とする外国軍隊の北京駐留権を認めることとなった。日本もこの規定に基づき「清国駐屯軍」を配置した。これにより、清朝の主権は著しく制限され、中国の半植民地化が決定的となったのである。
日露対立の激化と日露戦争への布石
北清事変が日本史において持つ最大の意義は、これが日露戦争の直接的な導火線となった点にある。ロシアは事変の鎮圧を名目に満州(中国東北部)へ大軍を派遣し、事変終結後も撤兵の約束を反故にして軍の駐留を継続し、満州の事実上の占領を図った。
このロシアの露骨な南下政策は、朝鮮半島を自国の絶対的な利益線と見なしていた日本にとって重大な脅威となった。また、中国における権益拡大を狙うイギリスやアメリカもロシアの行動に警戒感を強めた。その結果、ロシアの極東進出を阻止するという共通の目的を持つ日本とイギリスの利害が一致し、1902年の日英同盟締結へと結びついた。北清事変は、単なる反乱鎮圧にとどまらず、帝国主義列強間のパワーバランスを大きく揺るがし、日本とロシアを全面衝突へと向かわせる歴史的転換点であった。