第1次桂太郎内閣
【概説】
明治後期の1901年に、山県有朋の後継者である桂太郎が組織した内閣。ロシアの東アジア進出に対抗して日英同盟を締結し、日露戦争の開戦から講和にいたる戦時指導を担った。近代日本の東アジアにおける覇権確立と、のちの「桂園時代」の起点となった超然主義的藩閥内閣である。
藩閥対立の緩和と「情意投合」による政権安定
1901年(明治34年)6月、立憲政友会を率いる第4次伊藤博文内閣が閣内不一致で崩壊したことを受け、陸軍長州閥の有力者で山県有朋の愛弟子であった桂太郎が首相に推された。発足当初は「小政党内閣」と揶揄され短命政権と予想されたが、政友会を実質的に率いることとなった西園寺公望との間で協調関係を構築。これはいわゆる「情意投合」と呼ばれ、藩閥と政党が交互に政権を担当し合う「桂園時代」の先駆けとなった。
日英同盟の締結と日露戦争の遂行
第1次桂内閣の最大の課題は、義和団事件(北清事変)以後、満州に駐留を続けるロシア帝国への対応であった。内閣は、伊藤博文らが唱えた日露協商論(満韓交換論)を退け、イギリスとの同盟を画策。1902年(明治35年)に日英同盟を締結し、国際的な孤立を回避することに成功した。その後、ロシアとの交渉が決裂すると、1904年(明治37年)に日露戦争へと踏み切った。戦時下では挙国一致体制を敷き、増税や公債発行による莫大な戦費調達を強行しながら、戦争指導を完遂した。
講和への不満と日比谷焼打事件、そして退陣
1905年(明治38年)9月、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によりポーツマス条約を締結し、日露戦争を終結へと導いた。しかし、講和条件に賠償金の獲得が含まれていなかったことから、増税に耐えてきた民衆の不満が爆発し、東京で日比谷焼打事件が発生。内閣は戒厳令を敷いてこれを鎮圧した。対外・対植民地政策においては、同年にアメリカとの間で相互の支配権を容認する桂・タフト協定を結び、さらに第二次日韓協約を締結して韓国を保護国化(統監府の設置)するなど、帝国の版図拡大を進めた。1906年1月、講和をめぐる世論の硬化や戦後財政の危機的状況を背景に、桂は西園寺公望に政権を譲り退陣した。これにより、約4年7ヶ月に及ぶ長寿政権が幕を閉じた。