対露同志会

1903年、ロシアの満州撤兵不履行を受けて、近衛篤麿らが中心となって結成し、強硬な開戦論(主戦論)を唱えた団体は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
対露同志会(Wikipedia)

対露同志会 (たいろどうしかい)

1903年

【概説】
日露関係の緊張が極限に達した明治後期に、近衛篤麿や戸水寛人らが結成した対露強硬世論を煽動する政治団体。ロシアの満洲占領に対抗し、一貫して早期開戦を主張して政府に圧力を加えた。

結成の歴史高背景:満洲問題と主戦論の台頭

1900年(明治33年)に勃発した義和団事件(北清事変)に際し、ロシアは混乱に乗じて満洲(中国東北部)に大軍を派遣し、事実上の軍事占領下に置いた。事変後もロシアは撤兵の約束を履行せず、満洲の支配を既成事実化しようとしたため、日本の安全保障および朝鮮半島における権益が脅かされることとなった。

このような状況下、日本国内では外交交渉による解決を模索する政府(第一次桂太郎内閣)や伊藤博文ら慎重派に対し、軍事衝突をも辞さないとする強硬な姿勢(主戦論)が急速に台頭した。こうした対露強硬派の知識人や政治運動家、右翼勢力らが糾合し、1903年(明治36年)8月に結成されたのが対露同志会である。その前身には、1900年に近衛篤麿らが組織した国民同盟会があり、その排外主義的な対外強硬運動の流れを汲んでいた。

近衛篤麿と「七博士」の関わり

対露同志会の結成において、中心的な役割を果たしたのが、貴族院議長や東亜同文会会長を務めた名門近衛家の当主・近衛篤麿である。近衛はアジア主義の立場からロシアの東洋進出を激しく警戒し、対露開戦の世論形成を主導した。また、これに呼応したのが、東京帝国大学の教授らによる「七博士(戸水寛人ら)」であった。

戸水寛人ら七人の博士は、1903年6月に桂太郎首相らに「七博士意見書(対露同志会結成の端緒となる建白書)」を提出し、ロシアとの速やかな開戦を迫っていた。彼らは対露同志会の主要メンバーとして合流し、学術的な立場や権威を利用して開戦論の正当性を広く一般にアピールした。これにより、運動は単なる過激なナショナリストの暴動にとどまらず、エリート知識層を巻き込んだ国民運動としての性格を強めていくこととなった。

世論の煽動と日露戦争への導線

対露同志会は、全国各地で演説会を開催し、新聞メディアと緊密に連携することで主戦論を社会全体に浸透させた。当時、多くの主要新聞(東京日日新聞や国民新聞など)が同会の活動を好意的に報じ、それまで平和主義を掲げていた『万朝報』などのメディアをも主戦論へと転向させる社会的圧力を生み出した。

同会による激しい対政府弾劾と世論の過熱は、慎重な外交交渉を続けていた桂太郎内閣に強い危機感を与え、最終的に日本政府が日露開戦へと踏み切る大きな要因となった。1904年(明治37年)2月に日露戦争が勃発すると、対露同志会はその目的を達したとして解散したが、彼らが煽り立てた過剰なナショナリズムは、のちの日比谷焼打事件に代表されるような、講和条約(ポーツマス条約)への国民的不満爆発へと繋がる伏線となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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