乃木希典 (のぎ まれすけ)
【概説】
明治時代の陸軍軍人、陸軍大将。日露戦争において第3軍司令官として旅順包囲戦の指揮を執り、多大な犠牲を払いながらも203高地を陥落させた。戦後は学習院院長を務めたが、明治天皇の崩御に際して妻とともに殉死し、国内外に大きな衝撃を与えた。
長州藩士から陸軍軍人へ
乃木希典は、嘉永2(1849)年に長州藩士の家系に生まれた。幕末の動乱期を経て明治維新を迎えると、新政府の陸軍軍人として歩み始める。しかし、明治10(1877)年の西南戦争においては、連隊旗(軍旗)を薩摩軍に奪われるという軍人として致命的な失態を演じた。この出来事は乃木の心に深い自責の念を植え付け、のちの悲劇的な最期に至るまで彼の死生観に大きな影響を及ぼし続けることとなる。
その後、ドイツ留学などを経て着実に昇進し、日清戦争では歩兵第1旅団長として出征した。この際、奇しくものちに自身が苦戦することとなる旅順をわずか1日で陥落させる武功を挙げている。戦後は第3代台湾総督に就任したが、抗日運動の鎮圧や民政の安定に苦慮し、およそ1年半で辞任退役した。しかし、風雲急を告げる日露関係の悪化に伴い、再び軍務に復帰することとなる。
日露戦争と旅順要塞攻略戦
明治37(1904)年に日露戦争が開戦すると、乃木は陸軍大将に昇進し、第3軍司令官に任命された。彼の最大の任務は、ロシア太平洋艦隊の基地であり、近代的なコンクリート陣地で要塞化された旅順の攻略であった。旅順艦隊を殲滅しなければ、日本側は日本海周辺の制海権を確保できず、大陸での作戦行動に致命的な支障をきたすためである。
乃木率いる第3軍は、機関銃や鉄条網を備えた強固な要塞に対して伝統的な歩兵の突撃戦術を繰り返し、第1回から第3回までの総攻撃で数万人の死傷者を出す大惨事となった。この過程で乃木自身も二人の息子(勝典・保典)を相次いで戦死で失っている。国内では乃木更迭論も沸き起こったが、明治天皇の厚い信任と、満州軍総参謀長・児玉源太郎の支援もあり、目標を203高地に変更。多大な犠牲の末に同高地を奪取し、旅順港内のロシア艦隊を砲撃によって壊滅させた。翌年1月、ロシア軍のステッセル将軍が開城し、旅順攻囲戦は終結した。乃木は水師営の会見においてステッセルに帯剣を許すなど武士道精神に則った寛大な処置をとり、国際的にも名将としての称賛を浴びることとなる。
学習院院長就任と明治天皇への殉死
日露戦争における最終的な勝利への貢献により、乃木は世界的英雄として凱旋した。しかし、本人は多くの将兵を死地に追いやったことに深く胸を痛めており、凱旋時のパレードでも終始うつむき、涙を流していたと伝えられる。天皇への復命の際にも自刃して謝罪することを願い出たが、明治天皇から「今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというなら私が死んだ後にせよ」と諭された。
明治40(1907)年、明治天皇の特命により学習院院長に就任し、後の昭和天皇である迪宮裕仁親王らの教育に尽力した。質実剛健を旨とする乃木の教育方針は、のちの昭和天皇の人格形成に多大な影響を与えたとされる。
そして大正元(1912)年9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われる日の夜、乃木は妻の静子とともに赤坂の自邸で自刃を遂げた。天皇の死を追って命を絶つ「殉死」は、近代国家への脱皮を図っていた当時の知識人や社会に極めて甚大な衝撃を与えた。
後世の評価と文化的影響
乃木の殉死は、夏目漱石の『こころ』や森鴎外の『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』など、近代日本文学の傑作を生み出す直接的な契機となった。大正デモクラシーの波が押し寄せる中、彼の死は「明治という時代の終焉」と「武士道の体現」を象徴する出来事として受け止められ、乃木を祀る乃木神社が全国各地に創建されるなど、事実上の「軍神」として神格化された。
しかし太平洋戦争の敗戦後、軍国主義への反省から乃木への評価は一転する。特に司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』において「愚将」として描かれたことで、無能な指揮官というイメージが広く定着した。近年では、当時の日本の軍事技術の限界や、世界初となる本格的な近代要塞攻略戦であったという歴史的制約が考慮され、指揮官としての乃木の能力を客観的・軍事史的に再評価する研究も進んでいる。